1896年アメリカ合衆国大統領選挙
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1896年アメリカ合衆国大統領選挙
United States presidential election, 1896

1892年 ←
1896年11月3日
→ 1900年


投票率79.3%[1] 4.6%
 
候補者ウィリアム・マッキンリーウィリアム・ジェニングス・ブライアン
政党共和党民主党
出身地域オハイオ州ネブラスカ州
副大統領候補者
ギャレット・ホーバート
アーサー・スウォール
獲得選挙人271176
勝利地域数2322
得票数7,111,6076,509,052
得票率51.0%46.7%


州別獲得選挙人分布図
.mw-parser-output .legend{page-break-inside:avoid;break-inside:avoid-column}.mw-parser-output .legend-color{display:inline-block;min-width:1.5em;height:1.5em;margin:1px 0;text-align:center;border:1px solid black;background-color:transparent;color:black}.mw-parser-output .legend-text{}  マッキンリー   ブライアン   選挙人の出せない準州

選挙前大統領

グロバー・クリーブランド
民主党選出大統領

ウィリアム・マッキンリー
共和党

1896年アメリカ合衆国大統領選挙(1896ねんアメリカがっしゅうこくだいとうりょうせんきょ、英語: United States presidential election, 1896)は、1896年11月3日に行われたアメリカ合衆国大統領選挙(第28回)。

共和党ウィリアム・マッキンリー民主党ウィリアム・ジェニングス・ブライアンを破ったが、歴史家達はアメリカ史の中でも最も劇的な選挙戦の一つとなったと見ている。政治学では、1896年の選挙をしばしば再編成の選挙と見ている。マッキンリーは、実業家、専門家、熟練工場労働者および富裕な農夫を代表する連携を作り上げた。合衆国の北東部、中西部の北部および太平洋岸の州では最強だった。ブライアンは民主党、人民党およびシルバー共和党の候補者だった。南部、中西部の田舎およびロッキー山脈の諸州で最強だった。複本位制金本位制、銀の自由鋳造および関税といった経済問題が重要だった。共和党の選挙対策本部長マーク・ハンナは350万ドルの予算に裏付けられた多くの近代的選挙技術を発明した。ブライアンより10倍もの金を遣った。民主党のブルボン民主党(実業家寄りの派閥、現職大統領グロバー・クリーブランドが代表者)との離別は、その後の16年間にわたる共和党のホワイトハウス支配の始まりとなり、それは1912年に民主党のウッドロウ・ウィルソンを選ぶことになった共和党の分裂まで続いた。しかし、ブライアンは選挙で敗北したが、その「素人」の連携が20世紀に入っても民主党の主潮となり、ウッドロウ・ウィルソン、フランクリン・ルーズベルトハリー・トルーマンおよびリンドン・ジョンソンと続くリベラルな経済計画で重要な役割を果たすことになった。
候補者の指名
民主党の指名

民主党の指名候補者

ウィリアム・ジェニングス・ブライアン、元ネブラスカ州選出アメリカ合衆国下院議員

リチャード・P・ブランド、元ミズーリ州選出アメリカ合衆国下院議員

ホレイス・ボイエズ、元アイオワ州知事

ロバート・E・パッティソン、元ペンシルベニア州知事

ジョセフ・ブラックバーン、ケンタッキー州選出アメリカ合衆国上院議員

ジョン・ロール・マクリーン、新聞社主および発行人、オハイオ州出身


元下院議員、ウィリアム・ジェニングス・ブライアン、ネブラスカ州出身

元下院議員、リチャード・P・ブランド、ミズーリ州出身

元ペンシルベニア州知事、ロバート・E・パッティソン

上院議員、ジョセフ・ブラックバーン、ケンタッキー州出身

民主党全国大会シカゴで開催されたとき、南部および西部の代議員の多くは人民党の銀の自由鋳造という考え方を実行すると表明していた。この大会ではクリーブランド大統領の金本位制政策を否定し、続いてクリーブランド自身をも否定した。しかし、このことは大会を予測のつかないものにし、クリーブランドの後継者が分からなくなった。

弁護士で元下院議員、かつ上院議員では落選した候補者ウィリアム・ジェニングス・ブライアンがその穴を埋めた。優れた遊説家であるブライアンはネブラスカ州の出身であり、1893年の恐慌に続く経済不況に苦しむ何百万人もの田舎のアメリカ人の際立った代弁者として広く認められていた。多くの歴史家に拠ると、ブライアンはアメリカ史の中でも最も偉大な政治演説の一つ「金の十字架演説」を民主党全国大会で行った。この演説では、経済不況と闘っている農夫や工場労働者を熱情的に弁護し、大都市の実業家や企業所有者および指導者を経済不況の大半の原因を作ったとして攻撃した。金融システムの改革を要求し、国有銀行の費用で通貨を発行する権限を政府に戻すことを要求した。ブライアンの演説は非常に劇的であるので、彼が演説を終えると、多くの代議員が彼を肩に担いで議場を回った。この演説は大会の代議員をまとめあげ、ブライアンを大統領候補にすることになった。最も接近した指名候補者の元上院議員リチャード・"シルバー・ディック"・ブランドを3対1の得票率差で破った。メイン州の富裕な造船家アーサー・スウォールが副大統領候補に選ばれた。スウォールの富は選挙資金を払うために貢献できると、勢いづかせたと考えられる。ブライアンは36歳であり、主要政党に大統領候補に指名された者としては最も若いものになった。
共和党の指名

共和党の指名候補者

ウィリアム・マッキンリー、元オハイオ州知事

トーマス・リードアメリカ合衆国下院議長、メイン州出身

マシュー・クェイ、ペンシルベニア州選出アメリカ合衆国上院議員

リーヴァイ・モートンニューヨーク州知事

ウィリアム・アリソン、アイオワ州選出アメリカ合衆国上院議員


  マッキンリー

  リード

  モートン

  アリソン

共和党は1876年と1880年にもそうだったように、才能ある者のプールに漬かっており、大統領候補には元オハイオ州知事マッキンリーを、副大統領候補にはニュージャージー州出身のギャレット・ホーバートを指名した。金本位制を強く支持することを要求する綱領のために、多くの西部共和党員がミズーリ州セントルイス共和党全国大会会場から出て行き、民主党を支持する国民シルバー党を作った。

マッキンリーの選挙対策本部長は、富裕で才能あるオハイオの実業家マーク・ハンナであり、共和党全国大会の後で大企業や主要銀行の指導者を訪問し、選挙運動資金を集めた。多くの実業家や銀行家はブライアンの人民主義的言葉遣いや金本位制を終わらせることを支持していることを恐れていたので、ハンナは記録的な量の資金を集めるのにほとんど問題なかった。最終的に当時としては破格の350万ドルを集め、民主党の資金との比は5対1と見られるほど上回った。GDP比率で考えればこれは今日の30億ドルに相当する[2]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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