1888年アメリカ合衆国大統領選挙
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1888年アメリカ合衆国大統領選挙
United States presidential election, 1888

1884年 ←
1888年11月6日
→ 1892年


投票率79.3%[1] 1.8%
 
候補者ベンジャミン・ハリソングロバー・クリーブランド
政党共和党民主党
出身地域インディアナ州ニューヨーク州
副大統領候補者
リーヴァイ・モートン
アレン・G・サーマン
獲得選挙人233168
勝利地域数2018
得票数5,443,8925,534,488
得票率47.8%48.6%


州別獲得選挙人分布図
.mw-parser-output .legend{page-break-inside:avoid;break-inside:avoid-column}.mw-parser-output .legend-color{display:inline-block;min-width:1.5em;height:1.5em;margin:1px 0;text-align:center;border:1px solid black;background-color:transparent;color:black}.mw-parser-output .legend-text{}  ハリソン   クリーブランド   選挙人の出せない準州

選挙前大統領

グロバー・クリーブランド
民主党選出大統領

ベンジャミン・ハリソン
共和党

1888年アメリカ合衆国大統領選挙(1888ねんアメリカがっしゅうこくだいとうりょうせんきょ、英語: United States presidential election, 1888)は、1888年11月6日に行われたアメリカ合衆国大統領選挙(第26回)。

現職の大統領グロバー・クリーブランドが一般選挙では最高票を得たが、共和党の挑戦者ベンジャミン・ハリソンが選挙人選挙では233票を獲得し、168票のクリーブランドを破って大統領に選ばれた。12年前の1876年アメリカ合衆国大統領選挙でも同じことがおこり、大統領に選ばれた者が一般投票では最高票を得られていなかった。このような現象は、112年後、2000年アメリカ合衆国大統領選挙まで無かった[2]
候補者の指名
共和党の指名

共和党の指名候補者

ベンジャミン・ハリソンインディアナ州選出の元アメリカ合衆国上院議員

ジョン・シャーマンオハイオ州選出のアメリカ合衆国上院議員

ウォルター・グレシャム、元アメリカ合衆国財務長官、インディアナ州出身

ショーンシー・デピュー、ニューヨーク・セントラル鉄道社長、ニューヨーク州出身

ラッセル・アルジャー、元ミシガン州知事


  ハリソン

  シャーマン

  グレシャム

  アルジャー
ハリソンとモートンの選挙ポスター

共和党はイリノイ州シカゴで全国党大会を開催し、ハリソンが544の代議員票を獲得し、シャーマン(249票)、アルジャー(142票)、グレシャム(123票)を破って指名された。ニューヨーク州の政治家で財務家のリーヴァイ・モートンが592の代議員票を獲得し、ウィリアム・フェルプス(119票)とウィリアム・ブラッドリー(103票)を破って副大統領候補に指名された。
民主党の指名

民主党の指名候補者

グロバー・クリーブランド、現職大統領、ニューヨーク州出身


現職大統領、グロバー・クリーブランド、ニューヨーク州出身

ミズーリ州セントルイスで開催された民主党の全国大会で、グロバー・クリーブランド大統領が全会一致で大統領候補に再指名された。オハイオ州のアレン・G・サーマンが684票の代議員票を獲得し、大差でアイザック・P・グレイ(101票)とジョン・C・ブラック(36票)を抑え、党の副大統領候補に指名された。
その他の指名

禁酒党公認のクリントン・B・フィスクとジョン・ブルックスは、禁酒運動が功を奏し一般投票で25万票近くを獲得した。他に、統一労働党はアルソン・J・ストリーターを候補者にした。統一労働党は15万票近くを獲得したが、全国的に広がりを持った支持を得られなかった。
一般選挙
選挙運動

クリーブランドは選挙運動の主眼を、1887年12月に議会に示した年間教書で関税の劇的な削減に据えた。関税は不必要に高く、不必要な税金は不公平な課税だと主張した。共和党は、高い関税が国際競争からアメリカの産業を守り、高い賃金、高い利益および高い成長率を保証すると反論した。関税率を巡る保護貿易主義者と自由貿易主義者の間の議論は古いものであり、1816年関税に遡るものだった。アメリカ合衆国はほとんどの製品(毛織物品を除く)で低コスト生産できており、効率の劣るヨーロッパ生産者が安く売れるはずはなかったので、実質的に工業製品に掛けられる関税は意味の無いものになっていた。それでも関税問題は両陣営にかなりの程度動機付けを与えた。

明白な経済側面以外に、関税問題は民族的な側面も持っていた。当時、自由貿易の原則はイギリス帝国が最も強く推進しており、自由貿易を標榜して出馬する候補者はイギリス寄りと烙印を捺される恐れがあり、それによって流動的なアイルランド系アメリカ人の票を失う可能性があった。クリーブランドはイギリス帝国の一部とまだ見なされていたカナダとの漁業権論争で懲罰的行動を追及することで、この脅威をきちんと消した。

ハリソンは党活動家によって資金の手当てをされ、当時の標準としては精力的な選挙運動を行い、インディアナポリスの自宅玄関で多くの演説を行って、それが新聞に掲載された。クリーブランドは、大統領候補者が選挙運動を行わないという慣習に固執し、その閣僚も選挙運動に加わることを禁止し、75歳になる副大統領候補サーマンに運動の先鋒を担がせた。
ブロックス・オブ・ファイブ

選挙における最も悪名高い不正の1つがこの選挙のインディアナ州で行われた。共和党国民委員会の財務官ウィリアム・ウェイド・ダドリーは、インディアナ州郡部のまとめ役に回状を回し、「選挙人の不正投票者を5つのブロックに分割し、これら5ブロックを預かる信頼置ける者に必要な資金を渡し、誰も逃げないようにして全ての票が我が党に投票されるよう責任を持たせろ」と告げた。
マーチソン・レター

投票日の丁度2週間前、共和党は駐米英国大使ライオネル・サックヴィル=ウェスト(英語版)卿の信書「マーチソン・レター(英語版)」なるものを公開、イギリスの見解ではクリーブランドが恐らくは最善の者であると示唆する内容だった。

実はこの手紙は、ジョージ・オズグッドビーというカリフォルニア州在住の共和党員が、元イギリス人で現在はカリフォルニア州に住んでいる「チャールズ・F・マーチソン」という偽名で出した「来るべき大統領選では誰に投票すべきか」という手紙への返事だった。これは、1884年アメリカ合衆国大統領選挙での大ポカ「厄介者でローマカトリック教徒で反逆者」に正に匹敵する効果をアイルランド系アメリカ人有権者に与え、クリーブランドがニューヨーク州を落とす結果になった。また、軽率にも他国の選挙に関わることになってしまったサックヴィル=ウェストも、イギリス大使を解任されている[3]
結果

クリーブランドは敗れた。一般投票では実際にハリソンに勝った(48.6%対47.8%)が、選挙人投票ではハリソンが233票対168票で上回った。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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