1876年アメリカ合衆国大統領選挙
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オリヴァー・P・モートンインディアナ州選出上院議員

ロスコー・コンクリング、ニューヨーク州選出上院議員

1876年6月14日シンシナティで第6回共和党全国大会が開催されたとき、メイン州出身のジェイムズ・G・ブレインが大統領候補に指名されると考えられた。第1回目の投票でブレインは過半数にちょうど100票足りなかった。多くの共和党員がブレインでは一般投票に勝てないことを恐れたので、2回目の投票からはブレインの票が減り始めた。反ブレインの代議員は6回目の投票でブレイン票が41%に達するまで一人の候補者にまとまらなかった。改革派共和党の指導者は代わりの候補者に個人的に会い検討を重ねた。選ばれたのはオハイオ州の改革派知事ラザフォード・ヘイズであった。7回目の投票で、ヘイズは384票を獲得して351票のブレイン、21票のベンジャミン・ブリストウを抑え、指名された。ニューヨーク州出身のウィリアム・A・ウィーラーが、主要なライバルであり、後にこの選挙の論争に決着を付ける選挙委員会の一員を務めたフレデリック・セオドア・フリーリングハイゼンを大差(366票対89票)で抑えて副大統領候補に指名された。ティルデンとヘンドリックスの選挙ポスター
民主党の指名

サミュエル・ティルデンニューヨーク州知事

トーマス・A・ヘンドリックスインディアナ州知事

ウィンフィールド・スコット・ハンコックアメリカ陸軍少将・ペンシルベニア州出身

第12回民主党全国大会は共和党大会で結論の出る9日前にセントルイスで開催された。3人の指名候補、ニューヨーク州知事でブルボン民主党のサミュエル・ティルデン、インディアナ州知事のトーマス・A・ヘンドリックスおよび北軍の将軍でペンシルベニア州出身のウィンフィールド・スコット・ハンコックが出て始まった。ティルデンは第1回の投票でリードしたが、ニューヨークのタマニーホールの指導者ジョン・ケリーが強く反対した。ケリーの反対は十分ではなくて指名を止められず、ティルデンが2回目の投票で指名された。トーマス・A・ヘンドリックスはティルデンの副大統領候補に指名された。
グリーンバック党の指名

ピーター・クーパー、慈善事業家

アンドリュー・カーテン、元ペンシルバニア州知事

ウィリアム・アレン、元オハイオ州知事

グリーンバック党は1874年インディアナポリスで農民の利益のために作られた政党であり、緑背紙幣と呼ばれる紙幣を大量に発行して、経済を膨張させるよう連邦政府に提案していた。その第1回の全国指名集会は1876年の春にインディアナポリスで開催された。ピーター・クーパーが他の3人の指名候補に対して352票対119票という結果で大統領候補に指名された。反モノポリを謳うカリフォルニア州選出の上院議員ニュートン・ブースが副大統領候補に指名された。ブースが出馬を辞退したので、全国委員会はその代役としてサミュエル・F・ケアリーを選んだ。
その他の政党

禁酒党は2回目の全国党大会でグリーン・クレイ・スミスを大統領候補に、ギデオン・T・ステュアートを副大統領候補に指名した。アメリカ国民党はジェイムズ・A・ウォーカーとドナルド・カークパトリックの組み合わせを指名した。
一般選挙
選挙運動1877年に印刷されたこのポスターに見られるように選挙戦は白熱した。

ティルデンはニューヨーク州の政治マシーンの政治家を告発し、伝説的なボスであるウィリアム・トウィードを刑務所に送り込んだ男であり、ユリシーズ・グラント政権の裏面に対して改革を行う候補者として出馬した。両党ともに公務員改革とレコンストラクションの終了を打ち出した。


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