1876年アメリカ合衆国大統領選挙
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1876年アメリカ合衆国大統領選挙
United States presidential election, 1876

1872年 ←
1876年11月7日
→ 1880年


投票率81.8%[1] 10.5%
 
候補者ラザフォード・ヘイズサミュエル・ティルデン
政党共和党民主党
出身地域オハイオ州ニューヨーク州
副大統領候補者
ウィリアム・A・ウィーラー
トーマス・A・ヘンドリックス
獲得選挙人185184
勝利地域数2117
得票数4,034,3114,288,546
得票率47.9%50.9%


州別獲得選挙人分布図
.mw-parser-output .legend{page-break-inside:avoid;break-inside:avoid-column}.mw-parser-output .legend-color{display:inline-block;min-width:1.5em;height:1.5em;margin:1px 0;text-align:center;border:1px solid black;background-color:transparent;color:black}.mw-parser-output .legend-text{}  ヘイズ   ティルデン   選挙人の出せない準州

選挙前大統領

ユリシーズ・グラント
共和党選出大統領

ラザフォード・ヘイズ
共和党

1876年アメリカ合衆国大統領選挙(1876ねんアメリカがっしゅうこくだいとうりょうせんきょ、英語: United States presidential election, 1876)は、1876年11月7日に行われたアメリカ合衆国大統領選挙(第23回)。アメリカの歴史の中でも最も議論を呼び、白熱した大統領選挙の一つとなった。

ニューヨーク州出身のサミュエル・ティルデンが一般選挙でラザフォード・ヘイズを破り、選挙人投票でも184票を獲得してヘイズの165票を上回ったが、まだ集計されていない票が20票あった。この20票が論争となった。3つの州(フロリダ州ルイジアナ州およびサウスカロライナ州)で、それぞれの党がその候補の勝利を報告し、またオレゴン州の選挙人1人は違法(「選挙されたかあるいは指名されたか」という根拠で)と宣言され交代させられた。これらの票は激しい選挙人の議論の後で最終的にヘイズの得票とされた。

多くの歴史家達はある非公式の取り引きが論争を収めるために使われたと信じている。南部がヘイズの当選を黙認する代わりに、共和党は南部から連邦軍が引き上げることに同意し、レコンストラクションを実質的に終わらせたということである。この取引は1877年の妥協と呼ばれた。この妥協でアフリカ系アメリカ人は実質的に政府の権力から排除された。妥協から間もなく、アフリカ系アメリカ人は人頭税や祖父条項によって投票権を奪われた。
候補者の指名ルイジアナ州が発行したヘイズとウィーラーに対する選挙人票の証明書
共和党の指名

ラザフォード・ヘイズオハイオ州知事

ジェイムズ・G・ブレインメイン州選出下院議員

ベンジャミン・ブリストウ財務長官

オリヴァー・P・モートンインディアナ州選出上院議員

ロスコー・コンクリング、ニューヨーク州選出上院議員

1876年6月14日シンシナティで第6回共和党全国大会が開催されたとき、メイン州出身のジェイムズ・G・ブレインが大統領候補に指名されると考えられた。第1回目の投票でブレインは過半数にちょうど100票足りなかった。多くの共和党員がブレインでは一般投票に勝てないことを恐れたので、2回目の投票からはブレインの票が減り始めた。反ブレインの代議員は6回目の投票でブレイン票が41%に達するまで一人の候補者にまとまらなかった。改革派共和党の指導者は代わりの候補者に個人的に会い検討を重ねた。選ばれたのはオハイオ州の改革派知事ラザフォード・ヘイズであった。7回目の投票で、ヘイズは384票を獲得して351票のブレイン、21票のベンジャミン・ブリストウを抑え、指名された。ニューヨーク州出身のウィリアム・A・ウィーラーが、主要なライバルであり、後にこの選挙の論争に決着を付ける選挙委員会の一員を務めたフレデリック・セオドア・フリーリングハイゼンを大差(366票対89票)で抑えて副大統領候補に指名された。ティルデンとヘンドリックスの選挙ポスター
民主党の指名

サミュエル・ティルデンニューヨーク州知事

トーマス・A・ヘンドリックスインディアナ州知事

ウィンフィールド・スコット・ハンコックアメリカ陸軍少将・ペンシルベニア州出身

第12回民主党全国大会は共和党大会で結論の出る9日前にセントルイスで開催された。3人の指名候補、ニューヨーク州知事でブルボン民主党のサミュエル・ティルデン、インディアナ州知事のトーマス・A・ヘンドリックスおよび北軍の将軍でペンシルベニア州出身のウィンフィールド・スコット・ハンコックが出て始まった。ティルデンは第1回の投票でリードしたが、ニューヨークのタマニーホールの指導者ジョン・ケリーが強く反対した。ケリーの反対は十分ではなくて指名を止められず、ティルデンが2回目の投票で指名された。トーマス・A・ヘンドリックスはティルデンの副大統領候補に指名された。
グリーンバック党の指名

ピーター・クーパー、慈善事業家

アンドリュー・カーテン、元ペンシルバニア州知事

ウィリアム・アレン、元オハイオ州知事

グリーンバック党は1874年インディアナポリスで農民の利益のために作られた政党であり、緑背紙幣と呼ばれる紙幣を大量に発行して、経済を膨張させるよう連邦政府に提案していた。その第1回の全国指名集会は1876年の春にインディアナポリスで開催された。ピーター・クーパーが他の3人の指名候補に対して352票対119票という結果で大統領候補に指名された。反モノポリを謳うカリフォルニア州選出の上院議員ニュートン・ブースが副大統領候補に指名された。ブースが出馬を辞退したので、全国委員会はその代役としてサミュエル・F・ケアリーを選んだ。
その他の政党

禁酒党は2回目の全国党大会でグリーン・クレイ・スミスを大統領候補に、ギデオン・T・ステュアートを副大統領候補に指名した。アメリカ国民党はジェイムズ・A・ウォーカーとドナルド・カークパトリックの組み合わせを指名した。


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