1873年恐慌
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ドイツオーストリアでは拡張し過ぎという同じような経過が起こり、1870年から1871年のドイツ統一から1873年の恐慌までの期間が、グリュンダーヤーレ(設立者の時代)と呼ばれるようになった。ドイツにおける自由化された法人法が、ドイツ銀行のような新企業の設立と、既存企業の法人化に拍車を掛けた。1871年のフランスに対する軍事的勝利の達成感と、フランスからの賠償金が入ってきたことで、鉄道、工場、ドック、蒸気船への株式市場投機を加速させた。それはアメリカ合衆国で根拠無く拡大した産業分野と同じだった[18]オットー・フォン・ビスマルクが銀廃貨の手続きを始めたのは、フランスに対する勝利の直後だった。この手続きは1871年11月23日に始まり、新しい統一帝国の通貨として1873年7月9日に金マルクを導入したのが頂点となり、全領土内での銀貨に代わることになった。ドイツは金本位制に移行した[19]。銀廃貨はかくして大西洋の両側で金融危機共通の要因になった。

1873年5月9日、ウィーン証券取引所が崩壊し、偽りの拡大のバブルを維持できず、支払い不能となり、不正操作となった。一連のウィーンの銀行の破綻が続き、事業用貸付資金の縮小を起こした。1873年に破産した有名な人物の1人が、ウィーンのステファン・ケグレビッチだった。ケグレビッチは、ガボール・ケグレビッチの親戚だった。ガボール・ケグレビッチはハンガリーの忠実な財務相(1842年-1848年)であり、他の数人と共にハンガリー産業の拡大を資金手当てし、借金返済を保護する金融協会を設立した。これは1870年のクレディットシュッツフェアバンドに類似していた。それは債権者の保護と、破産した場合にメンバーの利益を保護するオーストリアの協会だった。ウィーン証券取引所崩壊後に、1873年のオーストリアで新しく多くの銀行を設立させたのがこの協会だった[20]。ベセル・ヘンリー・シュトラウスバーグの鉄道帝国が、ルーマニア政府との破滅的な合意の後に崩壊したベルリンとは対照的に、ドイツにおける投機バブルを弾けさせた。ドイツ経済の縮小は、1873年9月フランスからドイツへの賠償金支払いが決まったことで悪化させられた。ドイツ帝国設立から2年後に訪れた恐慌は「グリュンダークラハ」すなわち「設立者の崩壊」と呼ばれた[21][22][23]。ケグレビッチとシュトラウスバーグは現在のスロバキアにおけるプロジェクトで、1865年に直接競合しており、1870年にはハンガリー政府が、最後は1872年にオーストリアの皇帝(ハンガリー王)フランツ・ヨーゼフ1世が競合する計画の問題に決着をつけた[24][25]

外債金融の崩壊は既に予兆があったが、その年に予想された出来事は比較的重要ではなかった。1873年、ハンガリーの古都ブダオーブダが公式にペストと統合され[26]ブダペストという新しい都市を形成した。ウィーンとベルリンの間の安定度の違いは、ドイツに対するフランスの賠償金が溢れてオーストリアやロシアまで行くという効果があったが、この賠償金はオーストリアの危機を悪化させた。オーストリアはドイツにおける資本の蓄積だけでなく、イングランドオランダベルギー、フランス、およびロシアにおける資本蓄積の恩恵を受けてきていた[27]

この金融危機からの回復はアメリカ合衆国よりもヨーロッパの方が早かった[28][29]。さらにドイツ企業は、当時のアメリカの労使関係を悪化させた賃金の大幅カットというような事態を避けることができた[29]。ドイツやオーストリアの経済回復には、小規模投資家が恐慌の間の損失をユダヤ人の所為にしていたように、反ユダヤの感情があった[30][31]。偽りの拡大が再検討された。通貨配分の問題は労働経済学と資本の間の最初で最優先の所得配分問題だった[32]。間もなく現在のクロアチア西部オパティヤに豪華なホテルや別荘が建てられ、1873年には鉄道新線がウィーン=トリエステ線からリエカまで伸ばされ、そこからオパティヤまで路面電車で行けるようになった。港湾交通量の強力な増加により拡張への恒久的な需要が起こった[33]。1869年にはスエズ運河が開通していた。1875年から1890年の時代はフィーウメ(リエカ)のジョバンニ・デ・キオッタの「黄金時代」になった。
イギリス

1869年に開通したスエズ運河の建設は1873年恐慌の原因の1つだった。遙か喜望峰を回って極東から帆船で運ばれてきていた商品がイギリスの倉庫に眠っていたからだった。地中海からの偏西風が吹くために、帆船はスエズ運河利用には向いて居らず、イギリスの保税貿易には打撃になった[34]

イギリスでは、長い不況が倒産、失業拡大、公共事業の停止、大きな貿易不振に繋がり、不況は1897年まで続いた[35]
ドイツとの比較

1873年から1896年の不況の間に、ヨーロッパの国々の大半は劇的な物価下落を経験した。それでも、多くの会社は生産効率を改善させるようになり、高い労働生産性を確保した。結果として、工業生産高はイギリスで40%、ドイツで100%以上増加した。この2国の資本形成率を比較すると、異なる工業成長率が明らかになる。不況の間にイギリスの国民純生産に対する国民純資本の形成率は11.5%から6.0%に下降し、ドイツは10.6%から15.9%に上昇した。つまるところ、不況が進行する間にイギリスは静的な供給調整を行い、一方ドイツは実効需要を刺激し、資本形成を増加調整することで工業供給能力を拡大した。

例えば、ドイツは送電線、道路、鉄道の管理のような社会インフラに関する投資を劇的に増加させたのに対し、イギリスはこれを止めるか減らし、投資がドイツにおける工業需要に刺激を与えた。その結果、資本形成率の違いが2国の工業生産におけるレベルの違いとなり、不況期またその後の成長率の違いとなった[36]
オスマン帝国

周辺部にあったオスマン帝国の経済も苦痛を味わった。外国貿易の成長率が低下し、外国との貿易条件が悪化し、小麦価格の低下が小作人に影響し、オスマン帝国の財政をヨーロッパ諸国が支配するようになって、海外に大きな負債を負った。農業と建材生産の成長率は、その後の時代よりもこの「大恐慌」の時代に低かった[37]
ラテン通貨同盟

銀の一般的な廃貨と安価化が1873年のラテン通貨同盟結成に繋がり、銀の通貨への転換が停止された。
地球的保護主義

1873年の不況後、農業と工業の経営者が保護関税についてロビー活動を行った。1879年間税はこれら受益者を保護し、国の干渉を通じて経済回復を促し、ビスマルクやカナダ首相ジョン・A・マクドナルドなど保守派政治家に対する支持を呼び戻した。宰相ビスマルクは1870年の古典的自由主義経済政策から次第に逸れて、高関税、鉄道の国有化、強制的社会保障など多くの保守的かつ進歩的政策を採るようになった[38][39][40]。この政治と経済のナショナリズムは、ドイツとカナダの古典的自由主義政党の資産を減らした。フランスはイギリスと同様に1897年まで続く長期不況に入っていた。フランスも関税の操作で経済問題を克服しようとした。1880年および1892年の新法で、多くの農業および工業輸入品に厳格な関税を課し、保護主義を目指した[41]。アメリカ合衆国は今だ南北戦争の後の時代にあり、強い保護主義者であり続けた[42]
脚注[脚注の使い方]^ Musson (1959)
^ “ ⇒What history teaches us about the welfare state”. The Washington Post (2011年8月29日). 2011年9月10日閲覧。
^ Richardson (2007) p. 131
^ White (2011) p. 17
^ Oberholtzer, A History of the United States Since the Civil War (1926) 3:79?122
^ Unger (1964) ch 8
^ Loomis (1968), pp. 219?220, 224?225.
^ Silver coinage was resumed under the w:Bland?Allison Act of 1878.
^ Wheeler (1973), p. 81.
^ Loomis (1968), pp. 119?120.
^ Masur (1970), p. 65.
^ Charles Poor Kindleberger, Historical Economics: Art or Science? Berkeley, CA: University of California Press, 1990; pg. 321.


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