1873年恐慌(1873ねんきょうこう、英: Panic of 1873)は、1873年から1879年までヨーロッパと北アメリカで不況を生じさせた金融危機である。さらに長引いた国もあった。例えばイギリスでは、大不況と呼ばれる経済停滞の20年間が始まり、それまで世界経済をリードしてきた国力を弱らせた[1]。当時は「大恐慌」とも呼ばれたが、1930年代初期に世界恐慌が起きた後は、長期不況と呼ばれるようになった[2]。
1873年恐慌とその後の不況には幾つか潜在的な原因があった。それに関して経済史家は相対的な重要性を議論している。普仏戦争(1870年-1871年)の結果、ヨーロッパにおける戦後のインフレ、投機的投資の蔓延(圧倒的に鉄道に対する投資)、巨大な貿易赤字、経済的混乱の波紋があり、1871年のシカゴ大火、1872年のボストン大火など資産の損失があり、その他要因もあって銀行の資本準備高に大きな歪みが生まれ、1873年9月から10月にニューヨーク市の準備高は5,000万ドルから1,700万ドルまで急落した。
金融危機の最初の兆候はオーストリア=ハンガリー帝国の首都ウィーンでの財政破綻であり、それが1873年までにヨーロッパと北アメリカの大半に広がった。 南北戦争の後のアメリカ合衆国は、鉄道の建設で経済は好況だった。1868年から1873年の間に国内で総延長33,000マイル (53,000 km) の新線が敷設された[3]。鉄道に対する投資の流行は、政府による土地払い下げと鉄道に対する補助金が大きな推進力となった[4]。当時、農業を除けば鉄道産業が最大の雇用主であり、多額の金とリスクを伴っていた。投機家が大量の現金を注入して産業の異常な成長をもたらし、ドック、工場、補助設備など造りすぎた状態になっていた。それと同時に、直ぐにはあるいは早期にリターンが見込まれない計画にあまりに多くの資本が投じられた[5]。 1871年、ドイツ帝国がターレル銀貨の鋳造を停止する決断を行い、銀の需要が減り、その価格に低下圧力がかかった。これが銀を多量に産出していたアメリカでも連鎖反応を起こした。その結果としてアメリカ合衆国で銀政策を変えさせることになり、1873年貨幣鋳造法
アメリカ合衆国
アメリカ合衆国の要因
1873年貨幣鋳造法
貨幣鋳造法は直接銀の価格を低下させた。この事で西部の鉱業事業の利益を損ない、この法を「73年の犯罪」と呼ぶまでになった。その効果は、東洋における貿易ドルで銀を利用することと、ネバダ州バージニアシティで新しい銀の鉱脈が発見された事で幾らか緩和され、鉱業活動への新たな投資を生んだ[7]。しかし貨幣鋳造法は国内の通貨供給量を減らさせ、利率を上げ、それによって重い負債を抱えていた農夫などに悪影響を与えた。その結果生まれた抗議の声は、この新政策がいつまで続くかという重大な疑問を投げかけた[8]。アメリカ合衆国の金融政策が不安定であるという概念によって、投資家達は長期の債券、特に長期国債を避けるようになった。この問題は、当時その後期にあった鉄道ブームによって複雑になった。
1873年9月、アメリカ経済は危機状態になった。これは、南北戦争後に北部の鉄道ブームから上がってきた過剰な経済拡大の期間に続くものだった。1869年のブラックフライデイ恐慌、1871年のシカゴ大火、1872年の馬インフルエンザ流行、1873年の銀廃貨という一連の経済悪化要因が続いた末に、この状況になった。 1873年9月、アメリカ合衆国の金融機関では重要な銀行であるジェイ・クック&カンパニーが、ノーザン・パシフィック鉄道の債券数百万ドルを売りさばけないことが分かった。クックの会社は他の多くと同様に鉄道に大きな投資を行っていた。投資銀行がその事業のためにより多くの資本を切望しているときに、ユリシーズ・グラント大統領の通貨供給量を下げるという金融政策(つまりは利率の増加)は、負債を抱えた者にとって事態を悪化させた。事業が拡大する一方で成長を手当てするために必要とする金が少なくなっていた。 クックなどの起業家はノーザン・パシフィック鉄道と呼ぶ第二の大陸横断鉄道を建設する計画があった。
ジェイ・クック&カンパニーの破綻