1837年恐慌
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失業の様子を示すホイッグの風刺画不景気についてアンドリュー・ジャクソンを非難する1837年のカリカチュア

1837年恐慌(1837ねんきょうこう、英語: Panic of 1837)は、1840年代まで続いた大きな景気後退を誘発したアメリカ合衆国の金融危機である。
概要

失業率が増大する中で利潤や価格、賃金が減少した。悲観論がこの時期に溢れた。恐慌は国の内外に起源があった。西部諸州での投機的貸し出しや綿価格における急激な物価下落、土地バブルの崩壊、国際的な正金流出、イギリスにおける貸し出し抑制は、全て恐慌の原因となった[1][2]

1837年5月10日、ニューヨーク市の銀行は、正金の支払いを停止した。これが意味するところは、額面金額でコマーシャル・ペーパーを買い戻す意思がないということであった。1838年に一時回復したとはいえ、景気後退は約7年続いた。銀行は破綻し、事業は失敗し、価格は下落し、数多の労働者が職を失った。失業率はある地域では25%にも上ったらしい。1837年から1844年は、一般に賃金と物価におけるデフレーションの年と言われている[3]
原因

金融危機は1834年半ばから1836年半ばにかけての経済拡大(英語版)に原因がある。土地、綿、奴隷の価格がこの間に急激に上昇した。この急激な上昇の始まりは、国の内外に多くの原因があった。当時の国際貿易固有の要因により豊富な銀がメキシコや中国からアメリカ合衆国に流れ込んだ。土地の売渡や輸入関税も、連邦政府に相当な歳入を与えていた。収益性の高い綿の輸出やイギリスの金融市場における国家保障の債券市場を通じてアメリカ合衆国はイギリスから重要な資本取引を得ていた。この債券はアメリカ合衆国の輸送事業の資金となった。ベアリングス銀行のようなイギリス系の銀行を通じてイギリスの信用貸しはアメリカ合衆国西部地区の拡大や国内改革、この時代の産業の成長の多くを支えた[4]

1836年、イングランド銀行の役員は、恐らくイギリスが食料の多くを輸入せざるを得ない小麦の低い収量の故に銀行の保有残高が近年急激に減少していると発表した。埋め合わせの為に役員は金利を3%から5%に徐々に上げることを示した。伝統的な金融理論では保有残高が低い時は銀行は金利を上げ貸し出しを抑制すべきだとされた。需要と供給の法則によると、金利上昇は金が最大の収益を得られるところに一般に流れるために正金をもたらそうとするとされる。自由貿易と比較的弱い貿易障壁を持つ開放経済においては、覇権国家イギリスの通貨政策は、他の国々に影響を与えた。このことはイギリスが金利を上げればアメリカ合衆国の主要な銀行が同じことをせざるを得なくなることを意味している[5]

ニューヨークの銀行が金利を上げ貸し剥がしをすると、悪影響が現れた。債券価格と利回り(または金利)は逆の相関を持つので、実勢金利の上昇は、アメリカの証券価格を引き下げることになる。重要なのは綿の需要が急落したことである。綿の価格は、1837年2月と3月に25%まで下落した[6]。特に南部諸州のアメリカ合衆国経済は、安定した綿価格に大いに依存していた。綿を売ることで学校が建ち、国内の貿易収支が安定し、ドルを強化し、当時の世界の準備通貨であるスターリング・ポンドにおける外国通貨取引の利潤を得ていた。アメリカ合衆国は依然として主要作物の輸出と初期の製造業を中心にした農業経済を主としていたので[7]、綿価格の暴落は、大きな影響をもたらすことになる。

アメリカ合衆国内に要因は数点あった。1832年7月、アンドリュー・ジャクソン大統領は全国の中央銀行や財務機関である第二合衆国銀行(BUS)に再免許を与える法案に拒否権を行使した(英語版)。BUSが次の4年間その業務を引き締めたことで、西部と南部の州公認の銀行は、安全でない準備金比率を維持しながら貸出基準を緩和した[2]。特に二つの国内政策は、不安定になっていた状況を悪化させた。1836年の正貨流通令(英語版)により、西部の土地は金貨と銀貨のみで購入できることになった。この命令はアンドリュー・ジャクソンが発しミズーリ州トマス・ベントンら正貨主義者が賛成した大統領令であった。インフレーションを抑制するための命令であったが、逆の結果を生んだようである。第二に1836年の預金及び分配法は、国内の様々な銀行に連邦歳入を投資した。この銀行の多くは、西部にあった。この二つの政策の効果は、東海岸の全国的な主要商業センターから正金を払い出すことになった。預貯金の残高が低まるとともに東海岸の大銀行や金融機関は、ローンの縮小をしなければならず、恐慌の主要な原因となった[8]

当時のアメリカ人は、恐慌の原因は主に国内政治の混乱であると見ていた。アンドリュー・ジャクソン大統領の第二合衆国銀行の認証を拒否した政策は、銀行から政府資金が引き出されることになり、これを非難する者もいた。マーティン・ヴァン・ビューレンは1837年3月に大統領になるが、就任が恐慌のわずか5週間前であったにもかかわらず、恐慌について大きく非難された。ヴァン・ビューレンは政府の介入を拒否し、彼の政敵によれば更に恐慌を長引かせ、被害を広げることになったという。一方でジャクソン流民主主義者は野放図な投機と紙幣の大量発行に繋がったことの両方で国立銀行を非難した。このことは大量に紙幣を発行する銀行に原因があった。
影響と余波

事実上全国が恐慌の影響を受けた。コネチカット州ニュージャージー州デラウェア州は、その商業地域で非常に大きな打撃を受けたと報告した。1837年、バーモント州の商業制度と信用制度は、強い打撃を受けていた。バーモント州は1838年に小康状態になるが、1839年から1840年にかけて再び強い打撃を受けた。ニューハンプシャー州は近隣の州ほどは影響を受けなかった。1838年には永続的な負債はなく、翌年以降の経済的打撃はさほど大きくなかった。ニューハンプシャー州最大の苦難は、州内における少額硬貨の流通であった。南部における状況は、東部の状況より悪かった。オールドサウスは強く打撃を受けたが、綿花地帯は最悪の打撃を受けた。バージニア州ノースカロライナ州サウスカロライナ州では、恐慌の影響から商品作物は多様化していった。


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