1832年改革法
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1832年改革法: Representation of the People Act 1832
議会制定法
イギリス議会
正式名称An Act to amend the representation of the people in England and Wales
法律番号2 & 3 Will. IV, c. 45
提出者第2代グレイ伯爵チャールズ・グレイ(首相)
適用地域イングランドおよびウェールズ
日付
裁可1832年6月7日
廃止1948年
他の法律
後継1948年国民代表法(英語版)
関連

1832年スコットランド改革法

1832年アイルランド改革法

1867年改革法(英語版)

現況: 廃止
法律制定文
1832年改革法が書かれている羊皮紙の巻物。巻物の最初には書記官が記録した、国王ウィリアム4世による国王裁可国王そを欲すの成句が記載されている。1832年改革法の可決を記念するサー・ジョージ・ヘイターの絵画。絵画は改革後の庶民院の第1会期(具体的には1833年2月5日の会議)の場面が描かれている。ナショナル・ポートレート・ギャラリー所蔵。前方には貴族院所属の大物政治家が描かれており、左側にはグレイ伯爵メルバーン子爵ホイッグ党員が、右側にはウェリントン公爵トーリー党員が描かれている。

1832年国民代表法(1832ねんこくみんだいひょうほう、英語: Representation of the People Act 1832)、または1832年改革法(1832 Reform Act)、大改革法(Great Reform Act)、第一次選挙法改正(First Reform Act、後の選挙法改正との区別という文脈で使われる名称)は、連合王国議会により制定されたイギリスの法律。
概要

イングランドおよびウェールズ選挙方法を大きく改革した法律であり、その序文によると「庶民院の成員の選出において、長らくはびこっている様々な不正を正す」ことが目的である[1]。第一次選挙法改正以前の庶民院議員の大半は名目上バラを代表したが、各バラ選挙区の有権者数は差異が大きく、有権者が7人しかいない選挙区もあれば1万人以上いる選挙区もあった[注釈 1]。議員選出が有力なパトロン1人に掌握されているという状況も多く、例としては第11代ノーフォーク公爵チャールズ・ハワードが11選挙区を掌握していた。また、各バラの間で選挙権の規定が違い、土地所有者にのみ選挙権を与える選挙区(例としてはカウンティ選挙区全て)もあれば、炊事のできるかまどまたはストーブを有する一室を占有する者[注釈 2]に選挙権を与える選挙区も存在した。

改革を求める声は1832年よりはるか前より挙げられてきたが、いずれも失敗に終わっている。1832年、首相第2代グレイ伯爵チャールズ・グレイ率いるホイッグ党が改革法案を提出し、それまで長年政権を握っていた野党のピット派(トーリー党)が激しく反対したものの(特に貴族院での反対の声が大きかった)、最終的には世論からの圧力により法案が可決された。1832年改革法により腐敗選挙区(有権者数が少なく、パトロン1人に掌握されていることの多い選挙区)の多くが廃止され、産業革命で成長した新興都市に議席が与えられた。また、有権者数が40万から65万に増えたことで、成人男性の約2割が有権者となった[6]

1832年改革法はイングランドおよびウェールズにしか適用されず、アイルランドに対しては1832年アイルランド改革法が制定された。スコットランドには1832年スコットランド改革法が適用され、有権者数が5千人から13倍にあたる6万5千人に増えた[7]
1832年改革法以前の庶民院詳細は「改革以前の庶民院(英語版)」を参照
構成庶民院はイギリスの議会の下院にあたる。

1800年合同法が1801年1月1日に施行された後、改革以前の庶民院(英語版)の定員は658人になり、うち513人がイングランドおよびウェールズを代表した。選挙区は主にカウンティ選挙区とバラ選挙区の2種類であり、カウンティ選挙区が地主を、バラ選挙区が商人を代表するという想定だった[8]カウンティは8世紀から16世紀までの間に設立されたイギリスの地方行政区画であり、選挙区だけでなく裁判所民兵隊の区分もカウンティに沿って行われた[9]。カウンティ選挙区で選出された議員は州騎士議員(英語版)(Knight of the shire)と呼ばれた。ウェールズとスコットランドのカウンティ選挙区は一人区で[注釈 3]、アイルランドとイングランドのカウンティ選挙区は二人区だったが、1826年にはコーンウォールのバラ選挙区であるグラムパウンド選挙区(英語版)の廃止に伴いヨークシャー選挙区(英語版)が四人区になった。

イングランドのバラ選挙区は場当たり的に設立されたため、ハムレット(小村)から大都市までと規模からして様々である。最初のバラは中世の州長官(英語版)により指定されたものであり、特に草創期であるエドワード1世の治世(1272年 ? 1307年)ではバラを精確に定義することが不可能だったため、どのバラや都市が議員を選出すべきかという判断は州長官ごとにバラバラであった[10]。また、これら初期に創設されたバラ選挙区の中には創設時点では大規模な集落だったものの、後に衰退した例が多く(ウィンチェルシー選挙区(英語版)、ダニッチ選挙区(英語版)など)、19世紀初までに有権者数が大幅に低下したものの引き続き議員2名を選出していた。これらの選挙区は腐敗選挙区と呼ばれる。バラ選挙区の創設権はテューダー朝までに州長官から国王に移ったが、ほとんどの国王が集落の実態を顧みず気まぐれに選挙権を創設したため、結果的にはテューダー朝の君主がイングランドで創設した70のバラ選挙区のうち、合計31選挙区が廃止された[11]。17世紀にすでに数世紀もの間廃止されていた15のバラ選挙区が再創設されたことで(うち7選挙区が1832年改革法で廃止)、問題がさらに大きくなった。そして、1661年にニューアーク選挙区(英語版)が創設された後、バラ選挙区が新設されることはなくなり、以降グラムパウンド選挙区の廃止という唯一の例外を除き不公平な区割りが1832年改革法の可決まで続いた。イングランドのバラは大半が二人区だったが、アビンドン(英語版)、バンベリー(英語版)、ヒガム・フェラーズ(英語版)、ビュードリー(英語版)、モンマス(英語版)の5選挙区とウェールズのバラ選挙区は一人区だった。また、シティ・オブ・ロンドン選挙区(英語版)とウェイマスおよびメルコム・レジス選挙区(英語版)は四人区だった。
有権者

ヘンリー6世の治世にあたる1430年と1432年に法律が制定され、カウンティ選挙区の投票権資格規定が統一された。これらの法律により、特定のカウンティにおいて40シリング以上の価値のある所有不動産(英語版)(freehold property)または土地を所有する人物はそのカウンティ選挙区で投票権を有した(いわゆる40シリング自由保有権(英語版))。しかし、40シリングという規定はインフレーションによる調整がなされず、時代が下るごとに投票権に必要な土地の面積は小さくなっていった[12]。また、有権者は男性に制限されたが、これは制定法による規定ではなく、慣習法に基づいており[13]、女性が不動産の所有者として総選挙で投票した例も稀ながら存在した[14]。いずれにしても、イギリス国民の大半に投票権がなく、イングランドのカウンティ選挙区の有権者数は1831年時点ではわずか20万人だった[15]。さらに、カウンティごとの有権者数も大きく異なっており、ラトランド選挙区(英語版)とアングルシー選挙区(英語版)では1千人未満だったがヨークシャー選挙区(英語版)では2万人以上だった[16]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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