1820年アメリカ合衆国大統領選挙
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1820年アメリカ合衆国大統領選挙
United States presidential election, 1820

1816年 ←
1820年11月1日 - 12月6日
→ 1824年


 



候補者ジェームズ・モンロー
政党民主共和党
出身地域バージニア州
副大統領候補者
ダニエル・トンプキンス
獲得選挙人228/231
勝利地域数24
得票数87,343
得票率80.6%


州別獲得選挙人分布図
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選挙前大統領

ジェームズ・モンロー
民主共和党選出大統領

ジェームズ・モンロー
民主共和党

1820年アメリカ合衆国大統領選挙(1820ねんアメリカがっしゅうこくだいとうりょうせんきょ、英語: United States presidential election, 1820)は、1820年11月1日から12月6日にかけて施行されたアメリカ合衆国大統領および副大統領を選出する選挙(第9回)である。
概要

アメリカ合衆国大統領選挙の中で実質的に対抗馬がないままに1人の候補者が選ばれたことでは3度目で、かつ最後の選挙である(その前の2回とは1789年1792年で、ともにジョージ・ワシントンが選ばれた)。

共に現職のジェームズ・モンロー大統領ダニエル・D・トンプキンス副大統領が、特に選挙運動もせずに再選された。

単一政党の政治が続いたにも拘らず、1820年の選挙期間には重要な問題が発生した。1819年の恐慌に続いて国中に不況が広がり、新しい領土に奴隷制が拡張されるという極めて重要な問題が中心課題となった。それにも拘らず、モンローはその再選にあたって反対党もなく、対立候補もいなかった。

当時の巷間に流布した話では、ニューハンプシャー州の1人の選挙人がジョン・クィンシー・アダムズに1票を投じ、ワシントンを唯一全会一致で選ばれた大統領のままにしておこうとしたということであった。実際に、アダムズに票を投じたニューハンプシャー州の選挙人ウィリアム・プラマーは単純にモンローが実力のない大統領であり2期目に値しないと感じていた。

マサチューセッツ州は4年前の選挙では22人の選挙人票を割り当てられていたが、1820年のときは15票に過ぎなかった。この影響力の減少は、その年のミズーリ妥協によって長い間州内にあったメイン地区が、加盟が保留されていた奴隷州であるミズーリ州とのバランスのために、自由州として分離し州に昇格したためであった。

この選挙ではミシシッピ州イリノイ州アラバマ州と上記ミズーリ州およびメイン州が新たに加わった。次の新州が加わるのはおよそ15年後である ⇒[1]
一般選挙
選挙運動

モンローとトンプキンスに対する対抗馬がいなかったので、実質的な選挙運動は無かった。
論争

1820年3月6日、連邦議会はミズーリ州に対して憲法と州政府を作るための会議を開催させる法律を成立させた。この法は「...当該州は形成されたときに、あらゆる観点において現存州と平等な条件で合衆国への加盟を認められる。」とうたっていた[1]。しかし、11月に議会が再招集され、ミズーリ州の加盟が新たな争点となった。ミズーリ州加盟に賛成する者は、ミズーリ州法の条件を満たしており、それ故に州であると主張した。反対する者は、ミズーリ州憲法のある条項がアメリカ合衆国憲法に違背していると主張した。

議会が選挙の終わった選挙人票を集計するために招集されたときまでに、この論争は2ヶ月以上も続いていた。集計は扱いにくい問題となった。もし議会がミズーリ州の票を加算すれば、ミズーリ州が州として認められたことになり、反対にその票を加算しなければ、ミズーリ州は州ではないと認めたことになった。前もってモンローが地滑り的勝利を掴んだことがわかり、それ故にミズーリ州の票は最終結果に影響を与えるものではなかったので、上院は1821年2月13日に、もし抗議がなされたとしてもミズーリ州の票が大統領になる者を変えなければ、この問題は考慮されないという決議を通した。実際に上院議長は、ミズーリ州の票を含めた場合と外した場合の2つの集計結果を議会に報告した[2]

翌日この決議が下院本会議に提案され、活発な議論のあとで可決された。それにも拘らず、1821年2月14日の選挙人票集計の際に、ニューハンプシャー州選出の下院議員アーサー・ライブモアによってミズーリ州の票に対する異議が出された。その論旨はミズーリ州が正式に州になっていないので、選挙人票を投ずる権利がないということだった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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