1819年恐慌
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1819年恐慌(: Panic of 1819)は、アメリカ合衆国では初の平時金融危機であり[1][2]、経済の全体的崩壊状況は1821年まで続いた[3]。この恐慌によって、それまでのヨーロッパと交易する植民地という状態から[4]、自由放任資本主義では必須となる金融と産業に比重が増していく動的な経済に転換されたことが自明になり[5]、好況と不況のサイクルに見舞われるようになった[6][7]ナポレオン戦争の後では地球規模の市場調整が進み[8]、景気低迷の厳しさは、過剰な公有地投機と組み合わされ[9]、銀行や企業から抑制無く発行される紙幣によって加速された[10]

第二合衆国銀行自体がこのインフレを呼ぶ行動に深く関わっており[11]、1818年からその西部にある支店が貸付を急速に締め付け始めたことで、州立銀行債券市場の規制における曖昧さを補償しようとした[12]。第二合衆国銀行の銀行券に相当する金貨を提供できなかったことで、州認証銀行は貸し付けを行っていた抵当の重い農園や事業用土地に対する取り立てを始めた[13]。その後に続いた金融危機は、1817年にヨーロッパにおける農業生産が突然回復したことと組み合わされ[14]、倒産が広がり、大勢の者が雇用を失った[15]

金融危機と不況は銀行と企業に対する民衆の不満を掻き立て[16]、連邦政府の経済政策に基本的な欠陥があるという考えが広がった[17]。アメリカ人の多くはこのような事態を初めて経験する者であり、その地方経済の利益を守るために政治に関わるようになった[18] 。この広がった不満は「旧」共和党員と同盟した民主共和党によって動員され、小さな政府、憲法の厳格な解釈、更に南部の卓越というジェファーソン流の原則に立ち戻ることになった[19]。1819年恐慌は好感情の時代に終わりを告げ[20]ジャクソン流民主主義の興隆を招くことになった[21]

「新」共和党員とそのアメリカ・システム[22]、すなわち保護関税、内国改良および第二合衆国銀行は厳しい批判に曝され、活発な弁護を必要とするようになった[23]
目次

1 景気循環論の限界

2 戦後のヨーロッパ再編とアメリカ経済: 1815年 - 1818年

3 規制の無い金融と共和制事業の必須事項

4 合衆国銀行の復活

4.1 アメリカ・システム

4.2 資本家: アスター、ジラード、パリッシュ

4.3 中央銀行に対する新連邦主義者の思惑


5 恐慌への序曲: 1816年 - 1818年

5.1 第二合衆国銀行の挫折と妥協

5.2 第二合衆国銀行支店の貸付とフロンティアの土地ブーム


6 恐慌突入 [101]

6.1 恐慌に対する第二合衆国銀行の対応

6.2 恐慌における第二合衆国銀行の責任


7 恐慌への反応

8 長期的な影響

9 経済学の解釈

10 脚注

11 参考文献

12 関連図書

13 関連項目

14 外部リンク

景気循環論の限界

アヘンをめぐる東洋の外交政策は少なからず恐慌に影響した。自由放任を前提とする市場調整が東洋まで及んだということはできない。1811年にシャムが、1813年に清国が、1824年に越南がアヘン取引を禁じている。1812年、英議会はイギリス東インド会社の交易活動を停止。1813年、特許条例が更新され、東インド会社はインド貿易の専売品目が茶だけになる。

ナポレオン戦争で疲弊したイギリスの資金を補うように、アメリカの資金も東インド会社に流れていた。それは、1832年にアメリカが越南に通商を要求していることから分かる。1833年に特許状が更新されて、東インド会社が対中貿易を自由に行えるようになるが、それまでは東洋の門戸をこじ開けるのに相当の資金が費やされた。
戦後のヨーロッパ再編とアメリカ経済: 1815年 - 1818年

アメリカ合衆国とイギリスは1814年12月24日にガン条約に調印し、米英戦争を終わらせた[24]


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