1800年1月1日の海戦
[Wikipedia|▼Menu]

1800年1月1日の海戦
Action of 1 January 1800
擬似戦争
ナイフの戦争中

イクスペリメントと海賊との戦闘の様子
ウィリアム・ベインブリッジ・ホフ画、1875年

時1800年1月1日
場所サン=ドマングゴナーブ島
結果決着つかず

衝突した勢力
 アメリカ フランス
指揮官
ウィリアム・マレー
デイビッド・ポーターアンドレ・リゴー
戦力
武装スクーナー1隻
商船4隻武装バージ14隻
ハイチの海賊400ないし500名[1]
被害者数
商船2隻が捕獲された
戦死1名
負傷1名バージ3隻が沈没
多くが戦死[1]
文民の損失: 負傷1名

1800年1月1日の海戦(1800ねん1がつついたちのかいせん、: Action of 1 January 1800)は、擬似戦争中に、現在のハイチの海岸沖、レオガン湾ゴナーブ島の近くで起きた海戦である。アメリカ側は4隻の商船を護送するアメリカ海軍スクーナーUSSイクスペリメントの船団であり、対戦したのはピカルーン(海賊)と呼ばれたハイチ人の乗った武装バージの戦隊だった。

フランスと同盟するハイチの将軍アンドレ・リゴーは、その行動範囲に入ってくる全ての外国船を攻撃するよう、その部隊に指示していた。USSイクスペリメントとその護送船団がゴナーブ島に接近してきたとき、ピカルーンがこれを攻撃し、商船2隻を捕獲した後に撤退した。アメリカ側ではスクーナーメアリーの船長が殺された。この戦闘中にピカルーン側は大きな損失を出したが、その地域に入ってくるアメリカ船に混乱を起こし続けるだけの強さは保った。1791年ハイチ革命の指導者トゥーサン・ルーヴェルチュールの軍隊によってリゴーが権力の座を追われて、初めてピカルーンは攻撃を止めた。
背景

1791年、ハイチ革命により、当時サン=ドマングと呼ばれたフランス領植民地で奴隷の反乱が成功し、地元民が政府の支配権を奪った。フランス植民地支配層の排除には成功したが、植民地支配権を握った様々な政治的派閥が抗争し、その間で戦闘状態になった。1800年までに、フランス寄りのアンドレ・リゴーと、自治を主張するトゥーサン・ルーヴェルチュールの間で「ナイフの戦争」が本格的なものとなり、サン=ドマングは2つに分かれた。リゴーはサン=ドマングの南部を支配し、ルーヴェルチュールが残りを支配した。リゴーの軍隊は物資を必要としており、通り過ぎるフランス以外の船を全て攻撃した[2]

ナイフの戦争と同時期に、アメリカ合衆国とフランスは擬似戦争の一部として、カリブ海で限定的海上戦争を戦っていた。1799年12月下旬、アメリカの武装スクーナーUSSイクスペリメントは、ブリッグのダニエル・アンド・メアリー、スクーナーのシーフラワー、メアリー、ワシントンの船団がフランスの私掠船に捕獲されないよう、護送していた。1800年1月1日、現在のハイチ、ゴナーブ島北側の沖、レオガン湾で、凪のために動けなくなっていた。リゴーはこの船団が止まったことを確認し、それを攻撃して捕獲するために11隻の武装バージを送った[3]

アメリカ商船の乗組員は小さな武器を持っているだけだったが、護衛艦であるイクスペリメントは強力な艦だった[3]。ウィリアム・マレーが指揮し、排水量135トン、6ポンド砲12門を装備し、乗組員数は70人だった。これに対するリゴーの部隊は11隻のバージであり、小さなものには40人ないし50人、大きなものでは60人ないし70人が乗り込んでいた[3][4]。これらのバージは主に手漕ぎであり、各艦26本のオールがあった[5]。それぞれに旋回砲や4ポンド砲を組み合わせて装備し、1艦あたりは2門ないし3門あって、小火器も持っていた[4]。この攻撃に向かったバージに加えて、援軍が必要な場合には招集できるバージや人員が近くにいた。全体では37隻のバージと1,500人の人員がリゴーの直接指揮下にあったが、アメリカ側はこの攻撃の間もそのことを知らなかった。リゴーのバージの1つ1つはそれほどの脅威ではなかったが、集団で襲ってきた場合、アメリカ艦に乗り移ることでアメリカの戦力を圧倒し捕獲が可能だった[6]
海戦デイビッド・ポーター代将


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:28 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef