18世紀
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1745年のカロデンの戦いでの大敗でこの動きは沈静化したが、イングランド側は民族衣装のキルトタータンを禁圧する強硬な同化政策を強いた。画像はタータンをまとったハイランド連隊の兵士たち。英仏第二次百年戦争。ヨーロッパを越えて新大陸やインドにも植民地をめぐる戦争は拡大した。画像はベンジャミン・ウエストによる歴史画でフレンチ・インディアン戦争エイブラハム平原の戦い)で戦死したウルフ将軍を描いたもの(カナダ国立美術館蔵)。アメリカ独立戦争。この戦争の帰趨はヨーロッパの旧体制にも大きな影響を与えた。画像はエマヌエル・ロイツェによる歴史画「デラウェア川を渡るワシントンメトロポリタン美術館蔵)」。黒人奴隷貿易の最盛期。アフリカから多くの黒人が大西洋を越えて新大陸へ奴隷として運ばれた。画像はアゴスティーノ・ブルニアスの描いた「西インドにおけるリネン市場のリネン露店と野菜販売商」。「ブラジルのミケランジェロ」。身体に障害を抱えながら優れた造形感覚により卓越した教会建築や彫刻を残したのがアレイジャディーニョである。画像はコンゴーニャスのボン・ジェズス・デ・マトジーニョス聖堂(ポルトガル語版)にある「キリストの捕縛」の場面の群像。ジェームズ・クックの死」。イギリスの海軍士官クックは太平洋各地を探検し新しい知見を得た。しかし最後の航海ではハワイ島住民との争いから殺害された。画像はヨハン・ゾファニーによる歴史画でロンドンの国立海洋博物館(英語版)のもの。イースター島ポリネシア系先住民が「ラパ・ヌイ」と呼んでいたこの太平洋の絶海の孤島がヨーロッパ人ヤコブ・ロッゲフェーンに「発見」されたのは1722年のイースター(復活祭)のことであった。画像は現在のイースター島にあるモアイ像。ナポレオンのエジプト遠征。1798年に始まるフランス軍の襲来はイスラム世界全体を震撼させ、エジプトの近代化を促す端緒となった。画像はルイ=フランソワ・ルジューヌが描いた「ピラミッドの戦いヴェルサイユ宮殿蔵)」。チューリップ時代。18世紀初頭にオスマン帝国は安定期を迎え、西欧文化がスルタン周辺でも盛んに取り入れられた。画像はこの時代を代表するスルタン・アフメト3世の肖像画で細密画家レヴニーの作。ワッハーブ派の発展。イスラム教の原点回帰を目指すワッハーブ運動を受け入れたのがアラビア半島の豪族であったサウード家のムハンマド・イブン・サウードであった。彼は周囲を征服しディルイーヤを都とする第一次サウード王国を建国することになる。画像はディルイーヤのサアド・イブン・サウード宮殿の遺跡。アフシャール朝の君主ナーディル・シャーの肖像。イランのサファヴィー朝を滅ぼし、インドのムガル帝国を急襲し一時的にデリーを制圧するなど「第二のアレクサンドロス」の異名をとる活躍を見せた。カージャール朝の勃興。初代君主アーガー・モハンマド・シャーテヘランを根拠地として一族をまとめあげザンド朝を倒してペルシアに新王朝を設立した。画像はアーガーが勝敗を決めたケルマーンの征服を描いた図。マラータ同盟。ムガル帝国が衰退したインドではデカンを根拠地とするマラータ同盟の勢力が拡大した。画像はこの同盟を率いてムガル帝国を翻弄した宰相(ペーシュワーバージー・ラーオラージプート絵画。ムガル帝国の衰退とともに各地のヒンドゥー勢力による芸術の振興が図られ、地方の特色を生かした作品が多く生み出された。画像はラージャスターン地方のブーンディーで1700年代に描かれた宮廷の女性たちの細密画。インド木綿の流行と衰退。ヨーロッパ諸国の需要増大によりインドの木綿産業は18世紀半ばまでに絶頂を迎えた。白綿布はキャラコと、染めた綿布はチンツ(インド更紗)と呼ばれ人気を博した。しかし18世紀の後半には産業革命によるイギリス綿織物業の追い上げがあり、次第に衰勢に向かうことになる。「マイソールの虎」ティプー・スルターン。マイソールの君主としてティプー・スルターンは第四次マイソール戦争ではイギリス軍を相手に壮絶な最期を遂げた。
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