18世紀
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グランド・ツアー」。古典教養の涵養や芸術品の蒐集なども兼ねて上流階級の旅行が盛んになった。画像はウフィツィ美術館のトリブーナを描いたヨハン・ゾッファニー(英語版)の絵画。美食の広がり。宮廷社会の洗練により人々はより美味なるものを求めるようになり、フランスでは「ガストロノミー」と呼ばれる美食学が成立した。画像は1735年に描かれたジャン=フランソワ・ド・トロワの「牡蠣の昼食(コンデ美術館蔵)」。ヴェネツィア共和国の終焉。18世紀を通じてヴェネツィアは低落傾向を示し、フランス革命戦争のカンポ・フォルミオ条約でオーストリアに併合される。画像はジョヴァンニ・ドメニコ・ティエポロにより描かれた18世紀半ばのヴェネツィアのカーニバルフリードリヒ大王。オーストリアとの戦いを通じプロイセンを強国に仕立て上げた啓蒙専制君主。画像はアドルフ・フォン・メンツェルによるフルートを吹く大王の歴史画(ベルリンの旧国立美術館蔵)。マリア・テレジア。ハプスブルク家を支えオーストリア継承戦争や七年戦争ではプロイセンを向こうに回し戦い続けた。画像はマルティン・ファン・マイテンスによる「1755年の皇帝一家の肖像シェーンブルン宮殿蔵)」。サンクトペテルブルクの建設。スウェーデンに勝利した皇帝ピョートル1世の改革によりロシアの首都は「西欧への窓」と呼ばれたサンクトペテルブルクに遷された。画像はサンクトペテルブルク近郊に造られた「ピョートル大帝の夏の宮殿(ペテルゴフ)」。女帝エカチェリーナ2世。夫であるピョートル3世を政変で廃位し、代わってロシアの女帝として登位し、トルコとの戦いやポーランド分割を通じてロシアの強大化を図った。画像はドミトリー・レヴィツキーによる「正義の女神」に扮するエカチェリーナ2世の肖像画(モスクワトレチャコフ美術館蔵)。ポーランド分割。東欧の啓蒙専制君主たちによりポーランド国家は消滅した。画像はポーランド分割を決議する国会への議員の入場を阻もうとするタデウシュ・レイタンを描いたヤン・マテイコの歴史画。スウェーデン国王暗殺事件。啓蒙専制君主であったグスタフ3世もフランス革命後は反革命派に転じ、国内は政情不安から陰謀が渦巻いた。そして1792年に国王は劇場の仮面舞踏会にて狙撃され絶命するのである。画像はこの事件を伝える版画の挿絵。リスボン大地震。1755年11月1日の諸聖人の日に起きた惨劇でリスボン市街の80%以上が大破したと伝わる。この混乱を鎮めたのが、啓蒙主義的な宰相ポンバル侯爵で、危機に乗じて強権的な措置がとられた。画像はジョアン・グラマによるこの地震の寓意図。ロバート・ウォルポールハノーヴァー朝歴代国王に信任され第一大蔵卿から首相となり任期は20年に及んだ。責任内閣制が固まり、ダウニング10番地が首相官邸となったのは彼の時代である。ジャコバイト壊滅。名誉革命後もスコットランドではステュアート家再興を望むジャコバイトの反乱がたびたび起こった。1745年のカロデンの戦いでの大敗でこの動きは沈静化したが、イングランド側は民族衣装のキルトタータンを禁圧する強硬な同化政策を強いた。画像はタータンをまとったハイランド連隊の兵士たち。英仏第二次百年戦争。ヨーロッパを越えて新大陸やインドにも植民地をめぐる戦争は拡大した。画像はベンジャミン・ウエストによる歴史画でフレンチ・インディアン戦争エイブラハム平原の戦い)で戦死したウルフ将軍を描いたもの(カナダ国立美術館蔵)。アメリカ独立戦争。この戦争の帰趨はヨーロッパの旧体制にも大きな影響を与えた。画像はエマヌエル・ロイツェによる歴史画「デラウェア川を渡るワシントンメトロポリタン美術館蔵)」。黒人奴隷貿易の最盛期。アフリカから多くの黒人が大西洋を越えて新大陸へ奴隷として運ばれた。画像はアゴスティーノ・ブルニアスの描いた「西インドにおけるリネン市場のリネン露店と野菜販売商」。「ブラジルのミケランジェロ」。身体に障害を抱えながら優れた造形感覚により卓越した教会建築や彫刻を残したのがアレイジャディーニョである。画像はコンゴーニャスのボン・ジェズス・デ・マトジーニョス聖堂(ポルトガル語版)にある「キリストの捕縛」の場面の群像。ジェームズ・クックの死」。イギリスの海軍士官クックは太平洋各地を探検し新しい知見を得た。しかし最後の航海ではハワイ島住民との争いから殺害された。画像はヨハン・ゾファニーによる歴史画でロンドンの国立海洋博物館(英語版)のもの。イースター島ポリネシア系先住民が「ラパ・ヌイ」と呼んでいたこの太平洋の絶海の孤島がヨーロッパ人ヤコブ・ロッゲフェーンに「発見」されたのは1722年のイースター(復活祭)のことであった。画像は現在のイースター島にあるモアイ像。ナポレオンのエジプト遠征。1798年に始まるフランス軍の襲来はイスラム世界全体を震撼させ、エジプトの近代化を促す端緒となった。画像はルイ=フランソワ・ルジューヌが描いた「ピラミッドの戦いヴェルサイユ宮殿蔵)」。チューリップ時代。18世紀初頭にオスマン帝国は安定期を迎え、西欧文化がスルタン周辺でも盛んに取り入れられた。画像はこの時代を代表するスルタン・アフメト3世の肖像画で細密画家レヴニーの作。ワッハーブ派の発展。イスラム教の原点回帰を目指すワッハーブ運動を受け入れたのがアラビア半島の豪族であったサウード家のムハンマド・イブン・サウードであった。彼は周囲を征服しディルイーヤを都とする第一次サウード王国を建国することになる。画像はディルイーヤのサアド・イブン・サウード宮殿の遺跡。アフシャール朝の君主ナーディル・シャーの肖像。
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