1715年ジャコバイト蜂起
ジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート、1712年頃。
戦争:ジャコバイト蜂起
年月日:1715年 - 1716年
場所:グレートブリテン王国
結果:ハノーヴァー朝の決定的な勝利
交戦勢力
ジャコバイト
フランス王国 グレートブリテン王国
指導者・指揮官
第23代マー伯爵ジョン・アースキン
ウィリアム・マッキントッシュ・オブ・ボーラム
1715年ジャコバイト蜂起(英語: Jacobite rising of 1715、スコットランド・ゲール語: Bliadhna Sheumais [?bli?n??? ?he?m??]、十五年の乱[1]またはザ・フィフティーン(The Fifteen)、マー卿の反乱(Lord Mar's Revolt)とも)は、亡命ステュアート家のジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート(「老僭王」「大僭称者」とも)による、イングランド、アイルランド、スコットランド王位奪回の試み。蜂起は翌1716年までに鎮圧された。 1688年から1689年までの名誉革命により、ステュアート朝のローマ・カトリック国王ジェームズ2世および7世はフランス王国に逃亡、フランス王ルイ14世の保護下に置かれた。ジェームズ2世の娘メアリー2世とその夫ウィリアム3世は共同統治王として即位した。1690年、長老派教会がスコットランドの国教に定められた。1701年王位継承法はイングランドの王位継承者をプロテスタントのハノーヴァー家に定め、1707年合同法でスコットランドにも適用された。そして、1714年にアン女王が死去すると、ハノーファー選帝侯ゲオルク1世はジョージ1世としてグレートブリテン王に即位した。ジョージ1世の即位によりホイッグ党優位が揺るぎないものになり、トーリー党は政治権力を全て失った。ホイッグ党政権は1710年から1714年までのトーリー党内閣の財政問題を追及、第一大蔵卿ロバート・ハーレーはロンドン塔に投獄され、ボリングブルック子爵は逮捕される前にフランスに亡命した。
目次
1 背景
2 反旗を翻すマー伯
3 スコットランドの戦闘
4 イングランドの戦闘
5 その後
6 脚注
7 参考文献
8 関連図書
背景