17世紀
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第14代アメフト1世の寵妃キョセム・スルタンは息子が第17代ムラト4世として即位したことで母后(ヴァーリデ・スルタン)になり、孫の第19代メフメト4世まで3代にわたりハレムから国政に関与し絶大な権力を握った。以後もこうした女性が続き「女人天下」とよばれた。画像は母后キョセムを描いた17世紀の細密画。旅行家エヴリヤ・チェレビ。首都イスタンブール生まれのチェレビはその生涯を通じてオスマン帝国各地を訪ね歩き、17世紀の帝国最盛期の風俗や習慣を『旅行記』で克明に記録している。画像はハンガリーのエゲル城に再現されたチェレビの彫像。エスファハーンの栄華。サファヴィー朝シャーアッバース1世が造営したこの都市は「世界の半分(エスファハーン・ネスフェ・ジャハーン・アスト)」と讃えられた。画像はエスファハーンに建てられたシェイク・ロトフォラー・モスク(英語版)の内部。イスラム国家間の平和。シ?ア派とスンナ派という立場はあれど、隣接するサファヴィー朝とムガル朝の関係はおおむね良好であった。画像はムガル皇帝ジャハーンーギルに歓待されるサファヴィー朝のシャー・アッバース1世。ムガル絵画の黄金時代。インド伝統絵画と中央アジア伝来の絵画が混交し、洗練された宮廷の絵画様式を誕生させた。画像はアブ?・ハッサンとマンスールにより1610年頃に描かれた細密画「プラタナスの樹にいるリスたち」。タージ・マハル。ムガル皇帝シャー・ジャハーンが絶世の美女と称えられた愛妃ムムターズ・マハルを偲んでアーグラに建てた白亜の霊廟。絶頂から衰退に向かうムガル帝国。皇帝アウラングゼーブの長い治世にこの帝国の領土は最大に拡がった。しかしイスラム教徒優先の政治は不満や衝突を惹起し、早くもこの皇帝の晩年には衰退の兆しが見え始めた。画像は孔雀の玉座に座るアウラングゼーブ帝。アユタヤ朝の最盛期。タイでは中国・日本のみならずイギリスやオランダの貿易船も来訪し活況を呈した。画像はナーラーイ王のもとで交渉をするフランス人使節団(ロッブリーのプラ・ナーライ・ラーチャニーウエート宮殿遺跡記念碑)。ラサポタラ宮。ラサにチベット仏教の教主ダライ・ラマ5世を頂点とするガンデンポタン体制が成立し、アジア各地にチベット仏教の信仰が拡がった。芸林百世の師。爛熟する明の文雅の世界にあって書画に独自の美意識を導入したのが董其昌である。その美学は後世に大きな影響を与えた。画像は「倣古山水図冊(ネルソン・アトクンス美術館蔵)」。イエズス会の中国宣教。イエズス会宣教師は異文化に対する順応主義を採用し、中国の古典教養を尊重する漢人士大夫の支持を得た。画像は『幾何原本』に描かれたマテオ・リッチ(利瑪竇)と徐光啓清初三大師。明朝から異民族である清朝の支配交代は漢人士大夫に大きな衝撃を与えた。この状況で黄宗羲顧炎武王夫之は清朝に仕えることなく経世致用を探り考証学の基礎を築いて三大師と呼ばれた。画像は「東洋のルソー」とも呼ばれた黄宗羲の肖像画。康熙帝。この皇帝の時代までに清は南明政権を倒し、三藩の乱も制圧して満州人の中国支配を確立した。康熙帝は賢君英主として知られ、近侍したイエズス会士ブーヴェの『康熙帝伝』でもその様子は窺える。画像は1699年に描かれた読書する40代の康熙帝の肖像。紫禁城太和殿。明清交代の戦火で紫禁城の多くが焼亡したが、太和殿は康熙帝の時代に再建がなされ現在もその姿をとどめている。ここで皇帝の即位・大婚・皇后冊立・遠征出征などの儀礼が行われ、皇帝が群臣の祝賀を受ける朝会も行われていた。清とジュンガルとの戦い。中央アジアの征服を目指したジュンガル部ガルダン・ハンであったが、清の康熙帝の遠征によりジョーン・モドの戦い(英語版)で敗北した。この後も両者の抗争は長く続くことになる。画像は『北征督運圖冊』に描かれたヘルレン川流域で陣を構える清の部隊。台湾鄭成功。北京失陥後も「反清復明」を唱え、オランダ人を駆逐した台湾を根拠地に独立政権を打ち立てた。その母が日本人だったこともあり近松門左衛門の「国姓爺合戦」などを通じて日本人にも広く知られた。江戸幕府の成立。徳川家康関ヶ原の戦いで勝利して征夷大将軍となり、以後260年余にわたる幕府の基礎を固めた。画像は狩野探幽による「徳川家康像」(大阪城天守閣蔵)。日光東照宮。徳川家康は死後に東照大権現の称号を贈られ日光に葬られた。続く三代将軍徳川家光の時代までに豪奢で絢爛な社殿が造営された。
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