17世紀
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康熙帝は賢君英主として知られ、近侍したイエズス会士ブーヴェの『康熙帝伝』でもその様子は窺える。画像は1699年に描かれた読書する40代の康熙帝の肖像。紫禁城太和殿。明清交代の戦火で紫禁城の多くが焼亡したが、太和殿は康熙帝の時代に再建がなされ現在もその姿をとどめている。ここで皇帝の即位・大婚・皇后冊立・遠征出征などの儀礼が行われ、皇帝が群臣の祝賀を受ける朝会も行われていた。清とジュンガルとの戦い。中央アジアの征服を目指したジュンガル部ガルダン・ハンであったが、清の康熙帝の遠征によりジョーン・モドの戦い(英語版)で敗北した。この後も両者の抗争は長く続くことになる。画像は『北征督運圖冊』に描かれたヘルレン川流域で陣を構える清の部隊。台湾鄭成功。北京失陥後も「反清復明」を唱え、オランダ人を駆逐した台湾を根拠地に独立政権を打ち立てた。その母が日本人だったこともあり近松門左衛門の「国姓爺合戦」などを通じて日本人にも広く知られた。江戸幕府の成立。徳川家康関ヶ原の戦いで勝利して征夷大将軍となり、以後260年余にわたる幕府の基礎を固めた。画像は狩野探幽による「徳川家康像」(大阪城天守閣蔵)。日光東照宮。徳川家康は死後に東照大権現の称号を贈られ日光に葬られた。続く三代将軍徳川家光の時代までに豪奢で絢爛な社殿が造営された。画像は「日暮御門」とも通称される東照宮の陽明門。歌舞伎の誕生。1603年に京都北野社の勧進興業で行われた出雲阿国の「かぶき踊り」が端緒となり、男装の女性による奇抜な演目が一世を風靡した。画像は『歌舞伎図巻』下巻(名古屋徳川美術館蔵)に描かれた女歌舞伎の役者采女。新興都市江戸。17世紀半ばには江戸は大坂や京都を凌ぐ人口を擁するまでとなった。画像は明暦の大火で焼失するまで威容を誇った江戸城天守閣が描かれた「江戸図屏風」(国立歴史民俗博物館蔵)。鎖国」への道。徳川幕府は将軍家光の時代までに、島原の乱の鎮圧に見られた厳格なキリスト教対策もあって、ヨーロッパとの貿易を限定していくことになる。画像は島原の乱で切支丹反乱軍が用いていたとされる軍旗「天草四郎陣中旗」(天草切支丹館蔵)。海を渡る日本の陶磁器。明清交代で疲弊した中国の陶磁器産業に代わり、オランダ東インド会社を通じて日本から陶磁器が数多く輸出された。画像は1699年に着工されたベルリンシャルロッテンブルク宮殿の「磁器の間」。探検家ヘンリー・ハドソン。イングランドの探検家で、ニューヨークを流れるハドソン川や、カナダ北部のハドソン湾にその名がつけられている。最後の航海では船員と仲違いし、置き去りにされ行方不明となった。画像はジョン・コリアによる歴史画「ヘンリー・ハドソンの最後の航海(1881年)」。セイラム魔女裁判。新大陸アメリカでも共同体内部での摩擦から人間関係の衝突を引き起こすことがあった。画像は19世紀の歴史画で、証人の少女メアリー・ウォルコットが失神している場面。海賊の黄金時代西インド諸島での貿易の高まりはカリブ海周辺に多くの海賊を生み出した。画像はハワード・パイルが描いた「カリブ海のバッカニーア」。スペイン副王支配のリマ。リマはこの当時スペインの南米支配の拠点であり、カトリック教会によるウルトラバロックとも呼ばれる壮麗な教会建築が並んだ。画像は1656年の大地震で大破したのちに再建されたリマのサン・フランシスコ教会・修道院。ケープ植民地。オランダ人ヤン・ファン・リーベックがこの地に到達して以来、白人系による植民地が形成された。画像は1683年にテーブルマウンテンを背後に広がるケープタウンを描いたもので、港には国旗を掲げるオランダ船が見える。未知の南方大陸を求めて。地理上の空白地帯である「未知の南方大陸(テラ・アウストラリス・インコグニタ)」を探すべく、多くの探検家が挑戦をした。オランダ人タスマンもその一人で、タスマニア島ニュージーランドを訪れた最初のヨーロッパ人となった。画像は地球儀を指さすタスマンとその妻と娘を描いた肖像画。

17世紀(じゅうしちせいき、じゅうななせいき)は、西暦1601年から西暦1700年までの100年間を指す世紀
17世紀の歴史

この時代のヨーロッパでは小氷期による世界レベルでの寒冷化が原因で17世紀の危機と呼ばれる混乱が生じ、各国で飢饉戦争内乱が相次いだ。


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