17世紀の危機あるいは単に全般的危機(ぜんぱんてききき)(英語: The General Crisis)とは、ヨーロッパ史において17世紀に起きた混乱や波乱をまとめた言葉。17世紀は、14世紀とともに小氷期によりヨーロッパの気候が寒冷化し、ペストが大流行して飢饉が起こり[1]、英蘭戦争や三十年戦争をはじめとする戦乱の多発によって人口が激減したため、研究者によっては「危機の時代」あるいは「17世紀の危機」と呼ぶことがある[2][3]。イマニュエル・ウォーラーステインによれば、「17世紀の危機」は1620年代に始まって約1世紀続く「近代世界システム」の収縮局面で、ヨーロッパを中核とする世界システムはこの間地理的にも交易量としてもほとんど拡大せず、重商主義政策と戦争によって世界の余剰を中核諸国が奪い合った時代である[2]。また、アメリカ大陸からの膨大な銀の流入によって、「価格革命」と称される急速なインフレーションが生じた後のヨーロッパでは生活費が2倍ないし3倍にも高騰したため、困窮する人々が増え、彼らによってヨーロッパ中で暴動が発生した時代でもあった[3]。
しかし、このような「17世紀の危機」論については、大久保桂子(イギリス近世・近代史)のように、17世紀前半に本当の「危機」を抱えていたのはスペインのカスティーリャであったろうが、一方では同時代の北部ネーデルラントは未曾有の繁栄を謳歌する「オランダ黄金時代」であったし、イングランドの毛織物輸出はエリザベス朝後半の大不況期を脱して好調だったことから、ヨーロッパのあらゆる地域、また、あらゆる面において「危機」的状況にあったわけではないことを指摘する立場もある[4]。 15世紀末から16世紀にかけて、大航海時代を迎えたヨーロッパは世界の拡大(ヨーロッパの拡大)とともに繁栄を謳歌した。その諸相を概観すると、 といった現象が挙げられる。16世紀、とりわけその前半期のヨーロッパ経済はアルプス山脈以北に関しては異常なまでの好況に沸き、アルプス以南についても相応の活況を呈していた[5]。とりわけ、ネーデルラントの港湾都市、アントウェルペン(アントワープ)の繁栄はめざましく、フランスの歴史家フェルナン・ブローデルは、「このスヘルデ川に臨む都市はじつに国際経済全体の中心にあった。」と記している[6]。また、当時、ヴェネツィア共和国の大使だったフランチェスコ・グイチャルディーニが、アントウェルペンでは1日に何百もの船舶が往来し、2千もの荷馬車が毎週やってくることを描写し、「かれらは、女にいたるまで3つあるいは4つの国語をあやつる」と書き記しているように、イギリス商人、ドイツ商人、イタリア商人が数多く来住する一大国際都市であった[7][注釈 1]。ドイツ史にあっても、16世紀は「ドイツ経済の英雄時代」「ドイツ巨商たちの黄金時代」などと呼ばれる経済的繁栄の時期であり、当時最も富裕な一族の名をとり「フッガー家の時代」とも称される[8][9]。ところが16世紀後半、オランダ独立戦争(1568年-1648年)やフランスのユグノー戦争(1562年-1598年)など宗教戦争が熾烈化するとヨーロッパ社会は次第に安定性を失っていった。1585年、繁栄を謳われたアントウェルペンもスペイン軍猛攻の前に陥落し、毛織物生産とその流通を介して成り立っていたロンドンとアントウェルペンとの密接な関係も終焉を迎えたのである[5]。 17世紀のヨーロッパは「全般的危機」に見舞われていたとされる[10]。これを、イギリスの歴史家エリック・ホブズボームは、もっぱら経済に限定してとらえようとする[10]。それに対し、ヒュー・トレヴァー=ローパーやフランスのロラン・ムーニエ
概要
16世紀の繁栄
金銀がもたらされたことによる価格革命
アメリカ大陸やアジア各地における植民地の増加
文化的に興隆したルネサンス
コペルニクスやレオナルド・ダ・ヴィンチを始めとする科学革命の端緒
安定した社会がもたらした人口増加
17世紀の危機
始まりと終わりアンリ=ポール・モット『ラ・ロシエルの包囲』(1881) 1627年から1628年にかけてのフランス宰相リシュリューによるラ・ロシェル攻囲戦を描いた絵画
この時期、バルト海方面における西欧諸地域の貿易、およびフランスの対近東貿易がともに大きく後退して国際経済は不振に陥り、一方、凶作や飢饉による栄養失調・大量死から人口の停滞ないし減少が生じた[10]。インフレーションは鈍化し、従来の経済成長は終息して不況が始まった[10]。1618年に始まり、20年代に本格化する三十年戦争、1620年のメイフラワー号による清教徒(ピューリタン、カルヴァン派)のアメリカ移住、フランスにおけるカトリック教会によるユグノー(カルヴァン派)迫害などとといった宗教対立の熾烈化や迫害の激化がみられ[注釈 2]、フランスのみならずドイツでもイギリスでも宗教上の理由で多くの血が流された[10]。また、三十年戦争の戦場となった地域では土地の荒廃が著しかった[10]。
一方、終息の時期については、最も早く危機を克服したとみられるオランダから瀕死の状態であえぎ続けたとされるスペインまで、それぞれの国家は危機に対して個別に対応し、その結果、危機を解消した時期については各国ごとにずれが生じるとみられる[11]。