16世紀
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画像は『アクバル・ナーマ』の細密画ヴィクトリア&アルバート博物館蔵)で戦象に乗って戦うアクバル。シク教の展開。16世紀初めにパンジャーブ地方ナーナクにより創始された。画像はアムリトサルにあるシク教の中心地ハリマンディル・サーヒブ(黄金寺院。1574年着工)。サンカローク窯。タイのスコータイ朝の副都シーサッチャナーライ近郊にあった窯で、ここから数多くの焼き物が輸出された。日本では桃山時代に評価が高まり宋胡禄焼(すんころくやき)の名で知られている。画像はロサンゼルス・カウンティ美術館の所蔵作品。アルタン・ハーン。モンゴルを再統一したダヤン・ハーンの孫でトゥメト部を率いたアルタンは、庚戌の変では北京にまで迫り明の人々を恐れさせた。寧波。貿易港として文化都市として知られたが、1523年の寧波の乱では日本船同士が衝突を起こし、以後貿易は制限され倭寇が跳梁するきっかけをなした。画像は寧波に残る1561年に建立された中国最古の書庫「天一閣」。宮廷画家から文人画家へ。明代中期から画壇の中心は文人画となり、沈周を祖とする呉派が伸長した。就中、詩書画に巧みな文徴明は三絶と呼ばれ、90歳の天命を全うし名作を残した。画像は文徴明の「枯木寒泉図」(ロサンゼルス・カウンティ美術館蔵)。王陽明の登場。明で官学となった朱子学に対し「心即理」や「知行合一」といった理念を掲げたのが陽明学である。明末には陽明学左派の李卓吾のような型破りの学者も現れ、文芸などを通じ思想界はかつてない活気を見せた。張居正の改革。財政再建と綱紀粛正のため神宗万暦帝のもとで改革を推し進めたのが内閣大学士の張居正である。一条鞭法の導入や全国的な丈量の実施により財政は好転したが、彼の死後、万暦帝の親政で改革はなし崩しにされていった。万暦赤絵。明の中期から後期には五彩など華やかな意匠の陶磁器が発展し、万暦帝の治世に因み「万暦赤絵」と呼ばれた。画像は「五彩竜仙人文尊形瓶(ボルティモアウォルターズ美術館蔵)」。雪舟等揚。明に渡って漢画を学んだ雪舟は、山口を拠点に日本各地を遍歴し、戦国画壇の先駆けとなった。画像は雪舟の最晩年にあたる1501年頃に実景をもとに描いた山水画の大作「天橋立図」。日本の戦国時代。室町幕府の支配が衰えると各地で群雄が割拠する時代へと突入した。画像は1561年の武田信玄上杉謙信の激突を描いた「川中島合戦図?風」(岩国美術館蔵)。石見銀山。1533年の本格的な銀生産が始まって以来、長らく尼子氏毛利氏の係争の地であった。ここで産出された銀は世界的な規模で流通し、南蛮貿易や中国の秤量貨幣システムにも影響を与えた。画像は石見銀山の氏神である佐毘売山神社洛中洛外図応仁の乱後も畿内は争乱が続いたが、京都の復興は目覚ましく、戦国大名もこの地を目指した。画像は織田信長から上杉謙信に送られた「洛中洛外図?風(上杉本)」(米沢市上杉博物館蔵)で、京都の町衆による祇園祭が描かれている部分。織田信長尾張の領主から身を起こし、駿河今川氏美濃斎藤氏を倒して勢力を拡大、室町幕府を滅ぼし、時代に先んじた政策で天下へ号令をかけた。画像は愛知県豊田市長興寺にある信長の肖像画。豊臣秀吉本能寺の変で横死した織田信長の路線を踏襲して、戦国の混乱に終止符を打ち「天下統一」を成し遂げた。画像は狩野光信による絹本着色「豊臣秀吉像(京都高台寺蔵)」。怪物たちのいる地図。16世紀前半に至っても人跡未踏の地域は未だ広大であり、怪物たちが闊歩する想像力豊かな地図が描かれ続けた。画像はオラウス・マグヌスによって描かれ1539年に出版された北欧の海図「カルタ・マリナ」の部分。世界地図の変容。16世紀後半には大航海時代の発見や調査に伴う新しい知見が盛り込まれ、新大陸を含めた今までにない世界地図が生まれた。画像はオランダの地理学者ペトルス・プランシウスにより1594年に作成された世界地図。
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