16世紀
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千年紀:2千年紀
世紀:15世紀 - 16世紀 - 17世紀
十年紀:1500年代 1510年代 1520年代 1530年代 1540年代
1550年代 1560年代 1570年代 1580年代 1590年代
盛期ルネサンス。歴代ローマ教皇の庇護によりイタリア・ルネサンスの中心はローマに移動した。画像はこの時代に再建がなされたローマのサン・ピエトロ大聖堂の内部。神聖ローマ皇帝カール5世。スペイン王を兼ねイタリア各地やネーデルラントも支配したが周辺諸国との戦いにも明け暮れた。画像はティツィアーノによる騎馬像(プラド美術館蔵)。「太陽の沈まない帝国」。カール5世の息子フェリペ2世の時代にスペインは目覚ましい発展を遂げ貿易網は地球全体に及んだ。画像はフェリペ2世によって建てられたエル・エスコリアル修道院。ここには王宮も併設されておりフェリペ2世はここで執務を行った。

16世紀(じゅうろくせいき)は、西暦1501年から西暦1600年までの100年間を指す世紀
16世紀の歴史アルマダ海戦(グラヴリンヌ沖海戦)。この戦いでスペインを打ち破ったイングランドは強国としてのしあがることになる。イングランド女王エリザベス1世。宗教対立に揺れるイングランドにあって国教会の組織を堅持し「良き女王ベス」と讃えられた。画像は1600年頃に描かれた『虹の肖像』(ハトフィールド・ハウス蔵のサリスベリー・コレクション)。スコットランド女王メアリー。元フランス王妃でもありイングランド王位継承者でもあったため、イングランドへ亡命後の人生は数奇なものとなった。最後はエリザベス1世の命で処刑されるが、現イギリス王室にその血は受け継がれている。画像はエルミタージュ美術館蔵の肖像。イエズス会の躍進。対抗宗教改革の旗手であったイエズス会は大航海時代の風潮と相俟って新大陸からアジア各地にキリスト教を拡げた。画像は原田家本「紙本著色聖母十五玄義・聖体秘蹟図」に描かれたロヨラザビエル京都大学総合博物館蔵)。南蛮人の到来。1543年のポルトガル人の種子島到着により、ヨーロッパ人の来訪は日本にまで及んだ。画像は伝狩野内膳『南蛮屏風』の一部(リスボン国立古美術館蔵)。ベレンの塔。ポルトガル最盛期を代表するマヌエル1世幸運王ヴァスコ・ダ・ガマのインド航路発見とポルトガルの発展を記念して建造した要塞。ベニン王国。西アフリカのナイジェリアにあったこの王国はポルトガルとの交易で16世紀から17世紀に繁栄した。画像は青銅製の三人で並び立つベニンの戦士像(ハーバード大学ピーボディ博物館蔵)。黄金郷トンブクトゥサハラ交易により塩・黄金・奴隷といった物資がここを経由し運ばれた。レオ・アフリカヌスらの旅行者はその豊かな富を驚嘆しつつ記録を残している。画像はトンブクトゥのサンコレ・モスク。バルバリアの海賊。北アフリカのアルジェリアを根拠地とするバルバロス・ハイレッディンはオスマン朝に帰順して大提督となり地中海のキリスト教諸国を圧倒した。画像はイスタンブルトプカプ宮殿スレイマン1世に謁見するバルバロス。アステカ皇帝モクテスマ2世。スペイン人コルテスの侵略に遭い事故に巻き込まれ事実上の最後の皇帝となった。画像は17世紀に皇帝を描いた再現画。インカ皇帝アタワルパ。スペイン人ピサロの侵略に遭い処刑され事実上の最後の皇帝となった。画像はグァマン・ポマの『新しい記録と良き統治』の挿絵。万能人レオナルド・ダ・ヴィンチ。「モナリザ」などに見られる巧緻な技術を持つ芸術家であるとともに解剖学・生物学・幾何学・建築学・力学に通じた手稿を残した天才であった。画像はトリノ王宮図書館(英語版)が所蔵するレオナルドの自画像。ニッコロ・マキャヴェッリ。小国家分立のイタリアにあって強力な政治統合を唱え、そのためには権謀術数をも辞さないという主張は、宗教や道徳から政治を切り離すいわゆる近代政治学の嚆矢となった。エラスムスの世紀」。「人文主義の王者」とも呼ばれたエラスムスは『校訂版 新約聖書』の他『痴愚神礼賛』のような諷刺の効いた著作を含め旺盛な執筆活動を行い、その思想は宗教改革前後の全ヨーロッパを席巻した。画像はハンス・ホルバインによるエラスムスの肖像(ルーヴル美術館蔵)。マルティン・ルター。彼が1517年に起こしたヴィッテンベルク大学での「95ヶ条の論題」は西方キリスト教世界を大きく分裂させる端緒となった。画像はルターの友人でもあったルーカス・クラナッハによる肖像画(アウクスブルクの聖アンナ教会(ドイツ語版)蔵)。ジャン・カルヴァン。パリ大学に学び主著『キリスト教綱要』で改革派であることを表明、ジュネーヴ神権政治を行った。画像はユトレヒトのカタリナ修道院博物館(英語版)博物館にあるカルヴァンの肖像。システィーナ礼拝堂の「最後の審判」。ミケランジェロによる大画面の壁画でキリストの再臨と死者の再生を題材としているが、西ヨーロッパ世界の信仰分裂の苦悩を表しているとも言われ、その複雑な人体表現はマニエリスム芸術の先蹤ともなった。ファブリカ』 。ファブリカとは解剖学者アンドレアス・ヴェサリウスの著書『人体の構造』のラテン語での略称のこと。精確で細密な今迄にない写実的な解剖図を添付することで人々を驚かせた。アントウェルペン。オーストリア系ハプスブルク家の支配下にあったネーデルラントは、スペイン系に支配が移っても長らくヨーロッパ国際貿易の要衝であった。画像はネーデルラントの中心地アントウェルペンにこの世紀に建てられたアントウェルペン市庁舎(英語版、オランダ語版)でマルクト広場に面した、壮麗なルネサンス様式建築である。ピーテル・ブリューゲルの絵画世界。聖書などの物語絵を描く一方で、市井の人々の身近な日常を取り上げ、類例のないこの時代の貴重な記録ともなっている。画像は「ネーデルラントの諺」(ベルリン絵画館蔵)。サン・バルテルミの虐殺。プロテスタントとカトリックの対立はフランスでは王権をめぐる内戦となり、この混乱からブルボン朝が生まれることになる。画像はスイス・ヴォー州ローザンヌ美術館蔵のフランソワ・デュボワ(16世紀の画家)(英語版)による同時代の虐殺の記録画。カルマル同盟の解体と再編。デンマーク王クリスチャン2世の「ストックホルムの血浴」によりスウェーデン人の反発が強まり、グスタフ・ヴァーサを国王とするスウェーデン王国がカルマル同盟から独立した。画像はグスタフ・ヴァーサ(グスタフ1世)の肖像。奇想の宮廷。神聖ローマ皇帝ルドルフ2世が宮廷をプラハに置いたことにより、この地は学問・芸術・神秘思想の国際マニエリスム文化の中心となった。画像はアルチンボルドによる「ウェルトゥムヌスに扮するルドルフ2世(スウェーデン・スコークロステル城(英語版)蔵)」。ポーランドの黄金時代(英語版)。ヤゲウォ朝最後の国王ジグムント2世の時代にこの国は経済的にも文化的にも大いに繁栄した。画像はジグムント2世(アウグスト)王のモノグラム「S・A」が刺?されたタピストリーで1555年頃にブリュッセルで作られたもの。イヴァン4世。ロシアを強国にするため各地を征服した一方で、専制君主として恐れられ「雷帝(グローズヌイ)」の異名がついた。画像は雷帝死後間もなく描かれたパルスナ(ドイツ語版)様式の肖像画(コペンハーゲン国立美術館蔵)。モスクワの聖ワシリイ大聖堂。ロシアのイヴァン4世(雷帝)がカザン征服を記念して建てたビザンティン様式の教会で、佯狂者聖ワシリイを顕彰している。ロシアのシベリア征服の始まり。イヴァン雷帝の時代にコサックイェルマークに率いられた一群がシビル・ハン国に大勝してその都カシリクを奪取し、以後シベリアにおけるロシアの東方拡大の端緒となった。画像はワシーリー・スリコフの歴史画「イェルマークのシベリア征服」。第一次ウィーン包囲。壮麗王とも呼ばれたスレイマン1世の時代にオスマン帝国の領土はハンガリーを含んだ中欧にまで広がり、ヨーロッパ諸国の脅威となった。チャルディラーンの戦いオスマン朝イェニチェリ鉄砲隊が、無敵を誇ったサファヴィー朝の騎馬軍団クズルバシュを撃ち破った戦いとして知られている。以後西アジアでも鉄砲や大砲の優位性が認められ、「火薬帝国」と呼ばれる帝国の並立が固定化した。ムガル帝国アクバル大帝。帝国の基盤を固める一方でイスラム教徒とヒンドゥー教徒の融和に尽くした賢君とされている。画像は『アクバル・ナーマ』の細密画ヴィクトリア&アルバート博物館蔵)で戦象に乗って戦うアクバル。


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