15世紀
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将軍義政が賞翫した蒐集品は「東山御物」として珍重されることになる。応仁の乱。将軍後継をめぐる守護大名の争いで京都の町は焦土と化した。以後足利将軍の権威は衰え下剋上の時代へと進むことになる。画像は応仁の乱を描いた「紙本著色真如堂縁起」(真正極楽寺蔵)。枯山水の庭。応仁の乱で東軍の総帥を務めた管領細川勝元は深く禅宗に帰依し、1450年に京都北西衣笠山山麓に創建したのが竜安寺である。この方丈庭園は禅の思想に基づくもので、1500年頃までに現在の形になったと伝える。一休宗純後小松天皇の落胤との出自に加え、五山の禅風に対する苛烈な批判精神と奇行で、一休宗純はこの時代きっての禅者として評価が高い。詩文を能くし『狂雲集』などでも有名である。画像は東京国立博物館所蔵の一休宗純の頂相

15世紀(じゅうごせいき)とは、西暦1401年から西暦1500年までの100年間を指す世紀
15世紀の歴史
世界

ヨーロッパでは1453年、オスマン帝国により東ローマ帝国が滅ぼされ、古代から続いてきたローマ帝国は完全に滅亡した(これを以て「中世の終わり」とする場合がある)。オスマン帝国の勢力が拡大し地中海の交易を支配すると、15世紀中頃から新たな交易ルートの開拓を目指して、ポルトガルスペインを中心に航海ブームが起き、大航海時代に突入した。1492年、クリストファー・コロンブスアメリカ大陸に到達すると大きな転機となり、ヨーロッパ諸国はしのぎを削って新大陸への進出を開始することとなる。

またフィレンツェミラノヴェネツィアローマナポリの連携によるローディの和約はイタリア半島の安定をもたらし、哲学科学芸術などにおけるルネサンス文化は各地で発展が見られた。その影響はアルプス以北の西ヨーロッパ諸国にも及び北方ルネサンスが形成された(イタリア・ルネサンス年表も参照のこと)。

石炭がエネルギー源、暖房用として大変重要になった[1]
日本

室町時代の中期にあたる。応仁の乱(1467年)、または明応の政変(1493年)以後は戦国時代に区分される場合もある。戦国時代には室町幕府権力の著しい低下、幕府と守護の体制の崩壊などにより、戦国大名の乱立が起き全国動乱の時代に突入した。この動乱は約1世紀に渡り続くことになる。
できごと
1400年代詳細は「1400年代」を参照

1401年

足利義満により土御門内裏(土御門東洞院殿)の修繕拡張が始まり、諸国に造内裏段銭を課する。

足利義満が肥富某僧祖阿らをに派遣する。足利義満が李氏朝鮮に使いを派遣する。

李氏朝鮮の太宗が中国のより朝鮮国王として冊封を授かり、王を名乗る事を正式に認められる。

ティムールダマスカス占領・バグダード占領。

ダマスカスとの和平交渉でティムールと歴史家イブン・ハルドゥーンが会見。


フィレンツェサン・ジョヴァンニ洗礼堂青銅扉の作成競技でギベルティが優勝する。

セビリア大聖堂の建設始まる( - 1519年)。


1402年

アンカラの戦いティムールオスマン帝国バヤズィト1世を破る。

明の燕王が建文帝を倒して第3代成祖永楽帝として即位。

足利義満が中国の明より日本国王として冊封を授かり、王を名乗る事を正式に認められる。

スマトラ島シュリーヴィジャヤ王室のパラメスワラ(英語版)王子がマラッカ王国を建国。


1403年

明の永楽帝が北平を都に定め北京(順天府)と改称。

フランス軍に包囲され対立教皇ベネディクトゥス13世アヴィニョンを退去。


1404年

永楽帝が中山王武寧冊封使を遣わす。

日明貿易(勘合貿易)始まる。

カスティーリャの外交官ルイ・ゴンザレス・デ・クラビホサマルカンドティムールを訪問する。


1405年

明への遠征途上のオトラルティムールが病没。

明の成祖永楽帝の命による鄭和の第1回南海遠征( - 1407年)。

ヴェネツィアパドヴァを併合する。


1406年

ベトナム胡朝が崩壊し明へ下る。

紫禁城の建設始まる。

中山王武寧を倒した尚巴志が父の尚思紹を王位に就ける(第一尚氏王統の成立)。


1407年

パリでオルレアン公ルイブルゴーニュ公ジャン(無畏公)の配下によって暗殺される。

鄭和の艦隊がインドのコーリコード(カリカット)に到着する。

足利義満正室日野康子後小松天皇准母)が准三宮となり、女院(北山院)となる。

朝鮮で太宗の仏教弾圧(斥仏揚儒)。


1408年

永楽大典」が成立する。

足利義満死去。朝廷から「太上天皇」の尊号を贈られるが、幕府はこれを辞退。


1409年

ピサ教会会議

ツォンカパによりガンデン寺が創建される。

プラハ大学チェコ人優遇策に反発したドイツ人教員・学生が辞職。

これら教員・学生を受け入れるためにマイセン辺境伯フリードリヒ4世がライプツィヒ大学を創建。



1410年代詳細は「1410年代」を参照

1410年

グルンヴァルド(タンネンベルク)の戦いポーランド王国ドイツ騎士団を破る。

鄭和の艦隊とセイロンのライガマ王国軍が交戦、鄭和は国王アラカイスワラらを捕虜とする。

南禅寺太白真玄等十四名賛「芭蕉夜雨図(東京国立博物館蔵)」が描かれる。


1411年

将軍足利義持が明使の入京拒否し国交断絶( - 1432年)。

グジャラート・スルターン朝のアフマド・シャー1世がアフマダーバードを都に定める。


1412年

後小松天皇が譲位し、第101代称光天皇が即位。

ローマ派の教皇グレゴリウス12世リミニに逃亡。

カスペの妥協


1413年

アムール川河口の奴児干(ヌルガン)に派遣された明の女真人宦官亦失哈(イシハ)が石碑「奴児干永寧寺碑記」を建てる。

パリでカボシュの反乱(フランス語版)。


1414年

コンスタンツ公会議始まる( - 1418年)。

イングランドでオールドカースルの乱

マラッカ王国でイスカンダル・シャー(英語版)が即位。この時期までにマラッカ王国はイスラム教に改宗する。


1415年

アジャンクールの戦い

ポルトガルのセウタ攻略。

宗教改革者ヤン・フスの火刑。

ホーエンツォレルン家フリードリヒ1世が世襲のブランデンブルク選帝侯位を獲得。

鄭和の艦隊がホルムズに到着。


1415年以前

如拙の「瓢鮎図妙心寺塔頭退蔵院蔵)」が描かれる。


1416年

エンリケ航海王子がサグレス一帯に「王子の村」を建設し航海学校を開設。

サヴォイア公国が成立。

京都の北山大塔が落雷で炎上する。

上杉禅秀の乱

尚巴志の北山侵攻


1417年

イングランドでロラード派ジョン・オールドカースルが処刑される。

コンスタンツ公会議で「フレクエンス(ドイツ語版)」が採択され、新教皇にマルティヌス5世を選出。

ポッジョ・ブラッチョリーニがドイツのフルダ修道院にて古代ローマの著作家ルクレティウスの『物の本質について』を発見する。


1418年

鄭和の艦隊の分団が東アフリカのマリンディに到達。

将軍足利義持の弟義嗣が謀反の疑いで殺害される。

ブルゴーニュ派のパリ制圧、アルマニャック派は王太子シャルルとともにパリから逃亡。


1419年

応永の外寇

ポルトガルのマデイラ諸島発見。

モントロー会議で、ブルゴーニュ公ジャンが暗殺される(英語版)。

フィリップがブルゴーニュ公を継ぎ、宮廷はディジョンからブリュッセルに遷される。


第一次プラハ窓外投擲事件によりフス戦争が勃発( - 1439年)。


1420年代詳細は「1420年代」を参照

1420年

トロワ条約の締結。

イングランド王ヘンリー5世のフランス王位継承権が認められ、フランス王太子シャルルの王位継承権が否定される。


ティムール朝ギヤースッディーン・ナッカーシュの遣明使節団が永楽帝に会見する。

明で宦官による特務警察の東廠が設置される。北京に天壇が設置される。


1421年

明の永楽帝が北平を北京と改名し正式に遷都する。


1422年

雲南地方で麓川の乱。

イングランド王ヘンリー5世と、フランス王シャルル6世が相次いで死去。

イングランド王ヘンリー6世が、イングランド・フランス共通の君主に選出される。


アスカーニエン家が断絶し、ヴェッティン家フリードリヒ1世ザクセン選帝侯を継承。


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