13世紀
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画像は南仏エーグ・モルトを出港し、マムルーク朝支配のエジプトに向かうフランス王ルイ9世とその一行。聖王と称えられたルイ9世だがこの遠征には失敗し捕虜となる。シチリアの晩?ホーエンシュタウフェン家の断絶を機にシチリア支配から地中海帝国建設を思い描いたシャルル・ダンジューだったが、彼の強圧的な支配に対抗して蜂起したシチリア島民によってその夢ははかなく潰えた。画像はこの事件を描いたジョヴァンニ・ヴィッラーニの『新年代記(英語版)』の挿絵。シャルトル大聖堂。盛期ゴシック様式を代表するフランスの教会建築で、画像にあるバラ窓ステンドグラスが有名であり、その深みのある青は「シャルトルの青」の異名で知られている。トマス・アクィナス。盛期スコラ学を代表するドミニコ会の神学者で、理性と信仰を結び付ける壮大な著作『神学大全』をまとめ、「天使博士」の称号を得た。画像は15世紀のカルロ・クリヴェッリによるもの。イベリア半島における文化交流。レコンキスタが進む一方でキリスト教徒とイスラム教徒の共存はカスティーリャの賢王アルフォンソ10世の時代も続いた。画像はこの王の時代に編纂された『聖母マリア頌歌集(カンティーガス・デ・サンタ・マリーア)』の挿絵でキリスト教徒とイスラム教徒の合奏が描かれている。ヴァルトブルクの歌合戦(ドイツ語版)。1206年にテューリンゲン方伯 ヘルマン1世の宮廷に集まったミンネザンガーたちにより行われたと伝わる。画像は14世紀に編纂された『マネセ写本』(ハイデルベルク図書館蔵)の挿絵。ハーメルンの笛吹き男1284年6月26日にドイツのハーメルンで130人の子供たちが失踪した。やがて笛を吹くネズミ捕り男の話も加わって伝説化されたこの事件の真相をめぐり、少年十字軍説、ドイツ人の東方植民説など、議論は百出しているが結論は未だ出ていない。リューベック北海バルト海貿易を生業とする北ドイツ諸都市ではハンザ同盟が結ばれ、リューベックがその盟主とされるようになった。なおリューベックは1266年には帝国自由都市の地位も獲得している。画像は13世紀に拡張されたリューベックの市庁舎でマルクト広場の黒煉瓦造りの建物がそれである。泉州(ザイトン)の繁栄。南宋時代から多くのイスラム商人が定住していたが、蒲寿庚らが元朝に帰服すると以前にも勝る賑わいを見せるようになった。画像は泉州のイスラム寺院清浄寺(中国語版)に残るアラビア文字の刻まれた石碑。交鈔。宋や金の制度をもとに発展させた紙幣で、1260年から1356年の間、元の正式な通貨として流通した。画像は「至元通行寳鈔」とその原版で、上段左の欄にパスパ文字も書かれている。禅宗の到来。中国で発達した禅宗日宋貿易などを通じて日本に流入した。画像は日本禅宗の源流ともなった中国の無準師範(仏鑑禅師)の頂相円爾(聖一国師)が招来したもの。現在は京都東福寺に所蔵されている。牧谿。南宋の無準師範門下の禅僧で、湿潤な大気を描くために技法を洗練させた水墨画で有名。その作品は中国では失われ、室町時代の足利将軍家の蒐集にみられるよう日本に多くが残された。画像は「観音猿鶴図」(京都大徳寺蔵)。武家の都鎌倉。東国を基盤とした政権の誕生により、宋よりもたらされた禅宗や、「鎌倉仏教」と呼ばれる庶民に開かれた新しい宗派がこの地で発展した。画像は「鎌倉の大仏」で知られる高徳院阿弥陀如来坐像。承久の乱。後鳥羽上皇は院宣を下し、鎌倉の執権北条義時の追討を命じた。しかし東国武士はそれに同調せず、京の院御所に攻め上り、上皇側は敗走した。以後、幕府の力は西国にも及ぶようになった。画像は後鳥羽上皇の似絵藤原信実によるもの(水無瀬神宮蔵)。執権北条時宗。二度にわたる蒙古襲来を迎え撃った日本側の指導者は北条時宗であった。画像は『一遍上人絵伝』巻5のもので、時宗の僧侶一遍と鎌倉七口の一つ小袋坂(現在の巨福呂坂)にて対面する北条時宗(折烏帽子で白い狩衣を着て馬に乗った人物)。蒙古襲来。クビライの命によりモンゴルの大軍が二度にわたって日本に押し寄せた。画像は御家人竹崎季長によって依頼され、元寇の様子を生々しく伝える記録となった『蒙古襲来絵詞三の丸尚蔵館保管)』。
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