12世紀
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画像は13世紀から14世紀に作られた源頼朝坐像(東京国立博物館蔵)。

平安時代後期から鎌倉時代最初期にあたる。天皇家摂関家を巻き込む政争「保元の乱」「平治の乱」により武士の政治的地位が上昇した。両乱で活躍した平清盛の打ち立てた平氏政権が栄えたが、治承・寿永の乱(源平合戦)における最終決戦「壇ノ浦の戦い」で源氏を筆頭とする勢力が勝利し平家が滅亡したことにより、源氏の頭領源頼朝による新たな武家政権である鎌倉幕府の成立に至る。
できごと清明上河図」。爛熟する北宋末期の徽宗皇帝「宣和時代」の開封の都を張択端が描いたもので現在は北京故宮博物院に所蔵されている。風流天子・徽宗。兄の哲宗の早世を受けて皇帝となった徽宗は名だたる芸術家として書画から骨董そして庭石に及ぶ鋭敏な感性を持っていたが、政治については凡庸で佞臣が跋扈する世情を招いた。画像は日本の個人が所蔵する徽宗の手による国宝「桃鳩図」。岳飛靖康の変により南遷が避けられなくなった宋では金に対する主戦派と和平派が衝突した。主戦派の中心が岳飛で失地回復に努めたが、和平派の宰相秦檜により謀殺された。今でも「救国の英雄」岳飛に対する中国での人気は高い。金と南宋。秦檜の主導した紹興の和議により宋は中国北部を失うが、臨安を都として経済的には大いに繁栄した。宋学の大成。南宋では理気二元論が整備されるとともに大義名分論が盛んに唱えられた。画像は朱熹の肖像で、彼のもとで宋学が深められたことから「朱子学」とも呼ばれるようになった。鈞窯(英語版)の展開。河南省禹州市にあったとされる宋の五大名窯の一つで、宋の南渡により金の支配するところとなり、空色の青磁に赤や紫の釉薬が交じる窯変の技術はこの時代に発展した。画像は大英博物館蔵の鈞窯紫紅釉盤。盧溝橋。華北を占領した金では世宗と章宗の二代の安定期を迎えていた。画像は現在の盧溝橋で、章宗時代に完成したものが基礎となっている。金の都燕京の近郊永定河に架けられており、「マルコ・ポーロ橋」の名でも知られている。高麗青磁。この世紀の後半には独自の象嵌青磁が誕生する。画像はソウル澗松美術館の「青瓷象嵌雲鶴文梅瓶」。ホイサラ朝の勃興。南インドのマイソール地方のホイサラ朝はこの時代に後期チャールキヤ朝の支配を脱し勢力を拡大した。画像は首都ドーラサムドラに建てたホイサレシューヴァラ寺院で細密な彫刻を全面に施すホイサラ様式が特徴である。ゴール朝の興隆。ガズナ朝を滅ぼしホラズム・シャー朝を屈服させたゴール朝のギヤースッディーン・ムハンマドは中央アジアから北西インドにまたがる地域を支配した。画像はアフガニスタンのハリー川沿いに建てられたジャームのミナレットクラック・デ・シュヴァリエ十字軍の支配下でシリアに築かれた城塞で、長らく聖ヨハネ騎士団の居城であった。この時代の築城技術の粋を集めた城塞で、サラ?フッディーンの猛攻をも退けた。サラーフッディーン。エジプトのファーティマ朝を倒してアイユーブ朝スルタンとなりスンナ派の信仰を復活させた。また十字軍と戦ってエルサレムを奪回しイスラム世界を守った英雄として名高い。ユダヤ人哲学者マイモニデス。スペイン生まれのユダヤ教ラビで、正式な名はモーシェ・ベン=マイモーン。ユダヤ教哲学に画期をなしただけでなく諸学に通じ、エジプトではサラーフッディーンの侍医も務めた。画像は「人間の尺度」について講義するマイモニデスの写本挿絵。タブラ・ロジェリアナ。シチリア王ルッジェーロ2世のもとでイスラムの地理学者イドリースィーによって1154年に作成された世界地図。画像は14世紀の模本でアジア・アフリカ・ヨーロッパが描かれている(南が上、東が左)。ムラービト朝。北アフリカのマラケシュを都としてイベリア半島にまで進出したベルベル人の王朝。画像はこの王朝のもとで作られたマラケシュの墓廟クッバ・バアディン(英語版)。イブン・ルシュド。西方イスラム哲学を代表する学者でアリストテレスの注釈から二重真理説や知性単一論を発展させ、「アヴェロエス」の名でスコラ学にも大きな影響を与えた。


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