12世紀
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千年紀:2千年紀
世紀:11世紀 - 12世紀 - 13世紀
十年紀:1100年代 1110年代 1120年代 1130年代 1140年代
1150年代 1160年代 1170年代 1180年代 1190年代
カンボジアの栄光。トンレサップ湖に面したこのアンコールの地にアンコール朝の王スーリヤヴァルマン2世アンコール・ワットの建設を行い、続くジャヤーヴァルマン7世アンコール・トムを築いた。画像はアンコール・トムのバイヨン四面像(観世音菩薩像)。十字軍国家の消長。イスラム教徒の反撃が始まったことで十字軍国家は重大な存亡の局面に立たされ、西欧に向けて幾度となく十字軍が勧請された。画像はギヨーム・ド・ティール著『十字軍国家の歴史(海の向こう側(ウトラメール)の歴史)』写本に描かれた第2回十字軍シチリア王国の繁栄。シチリア島ではギリシア・アラブ・ノルマンの文化が混交した。画像はノルマン人の王ルッジェーロ2世を描いたパレルモマルトラーナ教会モザイク壁画。

12世紀(じゅうにせいき)とは、西暦1101年から西暦1200年までの100年間を指す世紀
12世紀の歴史
ヨーロッパ巡礼の隆盛。スペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂の「栄光の門」のロマネスク様式の彫刻群。この地はサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路の終点であり、多くの信者がここを訪れた。

西ヨーロッパでは、前世紀に続き二度、第2回と第3回の十字軍の遠征が行なわれた(詳しくは以下の「西アジア」の節を参照)。また古典の文化がイスラム・ビザンツの文化を経由してヨーロッパに伝えられ、哲学美術文学などの分野でも新しい動きを見せた(12世紀ルネサンス)。またアラビア語に翻訳された古典ギリシア語著作が、シチリア島スペイントレドで組織立ってラテン語訳された時代でもあるため、「大翻訳時代(英語版)」とも呼ばれている。
西アジア

十字軍に対するイスラムの反撃が始まり、1144年エデッサが陥落する。これを受け、第2回十字軍シリアダマスカスを攻撃したが、敗退した。1187年アイユーブ朝スルタンサラーフッディーンによりエルサレム王国軍が壊滅し(ヒッティーンの戦い)、約90年ぶりにエルサレムイスラム側によって奪還された。この事件は第3回十字軍遠征(1189年-1192年)に発展したが、イングランドフランス、そして神聖ローマ帝国の十字軍は薄く延びる沿岸地域の奪還にとどまった(ただし、休戦協定によりキリスト教徒のエルサレム巡礼の自由は保証された)。
東アジア
中国

中国では、に服属していた女真が指導者完顔阿骨打により独立しが建国された。金はその10年後には遼および北宋を滅ぼし北半を征服、新たに再興した南半を制する南宋と対峙することになる。
日本院政期の書。和歌を仮名でしたためる和様の書が確立されると、それに合わせて写本の料紙に彩色下絵・金銀の箔・雲母摺の地紋・墨流し・破り継ぎなど高度な装飾技法が施されるようになった。画像は「西本願寺本三十六人家集」の「躬恒集(部分)」で白河天皇女御藤原道子の筆によるもの。絵巻物の流行。大和絵の手法により絵と詞書を書き連ねる絵巻物が一世を風靡した。画像は京都高山寺鳥羽僧正覚猷の名で伝来した「鳥獣戯画」。院政期文化を代表する逸品で動物たちの躍動感ある姿態の描写から「漫画」の祖とも呼ばれている。「武者の世」の到来。保元の乱と続く平治の乱で皇族や摂関家の抗争を介して武士団の軍事力が政局で重要な面を握るようになった。画像は「平治物語絵巻(三条殿焼討)」(ボストン美術館蔵)。厳島神社。保元・平治の乱の後、政権を指導したのは新興武士団の棟梁平清盛であった。平家一門の繁栄ぶりは現在も残る厳島神社の壮麗な社殿にも窺うことができる。治承・寿永の乱。平家の都落ちにより政局は流動化し「源平合戦」と通称される内乱が続いた。画像はこの内乱の終局を描いた伝土佐光信「安徳天皇縁起絵図」の壇ノ浦の戦いの場面。 この内乱の勝者源頼朝がやがて鎌倉幕府を開くことになる。源頼朝。東国武士団をまとめ上げ、鎌倉を根拠地に選び幕府を開いたのが源頼朝である。かつては源頼朝征夷大将軍に任じられた1192年を幕府の創設年としていたが、近年では守護地頭を置いた1185年を創設年としている。画像は13世紀から14世紀に作られた源頼朝坐像(東京国立博物館蔵)。

平安時代後期から鎌倉時代最初期にあたる。


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