119番
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サービス開始より半月後の12月31日現在において、東京では1番から269番[注釈 10] の電話番号が発番され、内務省は「141番」の指定を受けているが、警視庁は加入者リストにない[32][33]

日本で最初に「119番」の加入電話番号を得たのは、東京中央郵便局の前身である東京郵便電信局(日本橋区)だった。これまで電報を送りたい人は最寄りの郵電局[注釈 11] またはその電信支局の窓口に出向いて申込んでいた。より多くの電話加入者を獲得したい逓信省は、電話加入者であれば「119番」に電話し電報を申込めるほか、電報の受け取りについても(事前に申込んでおけば)配達されるのを待たなくても、電話越しに電報を読み上げてくれる加入者特典サービスを展開した[34]

それまで電報が(郵便より早く届く)唯一の通信手段だったため、電報受付の「119番」は便利なサービスとして電話加入者に知られるようになった。当初、東京郵便電信局の電話番号は「119番」ひとつだったが、電報受付業務の混雑解消のために「319番」がすぐに追加された。さらに全般用「557番」、小包係「840番」を設けて用途別に番号を分けた(電報受付は「119番」と「319番」の二回線)。
本局1430番への火災報知時代

さて独自の警察電話網を構築していた警視庁だったが、少し遅れて逓信省の加入電話をひいた。1894年(明治27年)6月の電話交換加入者名簿によると警視庁の電話番号は4桁の「1430番」である[35]。東京の電話の開通加入数が1,000を超えたのが明治25年度(1892年4月1日?1893年3月31日)の末ということから[36]、警視庁は1893年(明治26年)頃に加入したものと推察される。手動式交換台と交換手
(東京中央電話局浪花町分局,1898年)

1896年(明治29年)11月、東京では加入者の急増により浪花町分局が設置されたため、電話番号の頭に「本局」または「浪花」を前置することになり、警視庁の電話は「1430番」から「本局1430番」に変わった。前述の東京郵便電信局の電報受付「119番」「319番」も、「本局119番」「本局319番」になった。すなわちシンプルな3桁番号「119番」はこのときに消滅した。

1899年(明治32年)9月4日付けの東京朝日新聞に、警鐘(火の見櫓の半鐘による火災の合図)が聞こえてくるたびに出火方面を電話局の交換手に尋ねる加入者があとを絶たず、電話局本来の交換業務に支障をきたすようになっており、交換手へのこの手の問い合わせは堅く謝絶するとの記事がみられる[37]

1900年(明治33年)4月7日、警視庁が部署ごとに加入電話番号を架設し、由緒ある「本局1430番」は警視庁消防署(1891年に警視庁消防本署より改称[38])が受け継いだ[39]。日本初の消防署専用の加入電話番号「本局1430番」がここに誕生した。

当時の電話機には相手先の電話番号を指示するための回転盤(ダイヤル)はまだ付いておらず、まず自分が所属する電話局の交換手を呼出すことから始まる手動交換式である。そして所属局の交換手に相手方の電話番号を告げ、回線接続してもらっていた。電話番号をいわない『どこそこの誰々へ』はもちろんのこと、たとえ緊急時でも『警察』や『消防』と称する接続要求には応じないことになっており[40]、警視庁消防署に電話するには交換手に『本局1430番』と告げる必要があった。

本局1430番への火災報知として、1905年(明治38年)5月2日に東京市牛込区の豆腐屋が「油揚げ」を揚げていた油に火が移ったが、たまたま隣家が子爵邸で電話加入者だったため、本局1430番(警視庁消防署)へ急報し、大事に至らずに消し止められた事例がある[41]。これは「本局1430番」への出火報知を受けた警視庁消防署が、警察電話で消防第四分署(本郷区本富士町)へ出場指令したもので、加入電話と警察電話の連携によった。しかし1905年の東京市の人口197万人に対し、電話加入数(法人+個人)が1万4,440でしかないことから[42]、電話による出火報知はまだ一般的ではなかったといえよう。
各消防署の「加入番号」への火災報知時代

1906年(明治39年)4月17日、警視庁消防署を「消防本部[注釈 12]」、消防分署を「消防署」と改称した[43]。市内の各警察署には1899年(明治32年)より加入電話が置かれ始めたが[44]、消防署は消防本部との警察電話だけだった[45][46]

東京郵便局編 『東京電話番号簿』にはじめて消防署が登場するのは「明治四十一年七月改」版である。1908年(明治41年)当時の各消防署の所在地と加入電話番号を下表に示す[47][注釈 13][注釈 14]

部署名所在地加入電話番号
消防本部麹町区八重洲町2-4 警視庁構内本局1430番
第一消防署日本橋区坂本町40番地浪花4110番
第二消防署芝区愛宕町3丁目6番地新橋3730番[注釈 15]
第三消防署麹町区麹町10丁目11番地番町652番
第四消防署本郷区本富士町3番地下谷2701番
第五消防署浅草区浅草猿屋町17番地下谷2790番
第六消防署深川区八女川町40番地浪花4070番[注釈 16]

1908年から翌1909年(明治42年)に掛けて、室田景辰消防本部長の発案で、各消防署の電話番号を印刷した7-8寸(約23cm)角のチラシを市内電話加入者に数万枚配布し、早期の出火報知を期待したのに大失敗に終った[48]。その試みでは火災のたびに出火場所の問い合わせばかりが一時に集中した。電話局の交換台では交換業務がパニックになり、また消防署では問い合わせへの対応に手をとられるばかりか、消防署の電話が話中のままとなり、本来期待していた出火情報の提供を受けられない状態に陥った[48]。電話による火災報知の仕組み作りはここで一旦足踏みとなってしまった。
「火事」と言えば接続される火災報知用電話の誕生

1916年(大正5年)2月より、電話を用いた市民からの迅速なる出火報知およびその際の電話料金の無料化について消防と逓信の関係者で協議された[48]。火災の発見は望楼(火の見櫓)からの監視が中心だったが、市民からの素早い電話報知こそが最も効果的だからである。

まず火災報知だけは特例として電話番号を告げなくても、消防署へ接続する方向で話し合われた[注釈 17]。しかし大きな問題があった。各電話局の加入区域と、各消防署の管轄区域がまったく合致しなかった[注釈 18]。そのうえ下谷区仲御徒町三丁目にある下谷電話局の加入区域内には第四消防署(本郷区)と第五消防署(浅草区)の2つがあった[注釈 19]。報知者が電話機の受話器を上げると自分が住む地元電話局の交換台につながる。ここで交換手が報知者から出火場所の住所を聞きとり、どこの消防署へ接続するかを判断するなどは担当業務の範囲を超えている。そもそも一刻を争う緊急下において、市内各所に点在するどの消防署へ回線接続するべきかの重要判断とその責任を電話局の一交換手が負うべきものではない。

これまで(手元に加入者名簿[注釈 20] がなく、)消防署の電話番号が分からない場合は、500番(案内台)で自分が所轄だろうと思う消防署の番号を教えてもらい電話するしかなく、善意の電話なのに、報知者に大きな負担を強いていた。

そこで各電話局ごとに接続する消防署を(出火場所によらず)一意に定め[注釈 21]輻輳しないように火災報知用の専用線を架線した。そして専用線からの入電を受けた消防署が必要に応じて警察電話で他署へ連絡することになった。

また問い合せばかりが集中した過去の失敗を踏まえ、新設する制度では「警鐘前」の通報のみに限定し[注釈 22]、また交換手に『消防』と告げるのではなく、『火事』[注釈 23] だと申し出ることにした。

1917年(大正6年)4月1日、こうして東京市内でスタートした「火災報知用電話」を、電話による火災報知システムの嚆矢とする[3][4][5]。同年10月1日に大阪中央電話局電話加入区域内[49] で、また同年12月1日には横浜市[50] でも実施された。

大正6年 逓信省告示第305号
(3月30日)[注釈 24] 来る四月一日より東京市内における出火に際し、その警鐘前においてこれを警視庁消防部または消防署に通報するため市内通話を為さんとする者は、左記によりその請求を為すことを得。
加入者は所属交換取扱局を呼出し、単に「火事」と告げること

自働電話[注釈 25] による者は前項の例に準じ、かつ交換取扱局の指示により料金を投入すること

郵便局そのほかの公衆電話[注釈 26] による者は火災報知の旨を申し出ること(通話券(対話者電話番号の記入を擁せず)及び郵便切手は便宜通話後に差出すも支障なし)

前項の請求ありたるときは、交換取扱局において便宜と認める消防官署に接続通話せしむ

本告示による火災報告の通話は取扱上支障なき限り最優先により接続する
大正6年 逓信省告示第758号
(9月15日)来る十月一日より大阪中央電話局電話加入区域内における出火に際し、その警鐘前においてこれを大阪府警察部消防課または消防署に通報するため市内通話を為さんとする者は、左記によりその請求を為すことを得。
 (以下同文につき省略)
大正6年 逓信省告示第1019号
(11月15日)来る十二月一日より横浜市内における出火に際し、その警鐘前においてこれを神奈川県警察部または警察署に通報するため市内通話を為さんとする者は、左記によりその請求を為すことを得。
 (以下同文につき省略)

所轄消防署がどこかさえ知らなかったり、あるいは所轄消防署の電話番号を覚えていたはずでも、緊迫した状況下で思い出せなくなるなど、加入電話番号への火災報知に課題は多かった。そのため、交換手に単に『火事』と告げるだけで、消防官署へ接続してくれるこのサービスは画期的なものとなったが、火災場所の問い合わせ電話で電話交換業務に支障をきたした過去の経験から、逓信省は無料化に同意しなかった。

火災報知用電話の導入2年目の実績は下表の通りである[51][52]。従来の望楼(火の見櫓)からの火災発見に比べて、火災報知用電話は火災の早期発見および初期消火活動に著しい効果を発揮するようになった。

(大正7年1月より11月)火災発見種別火災件数消失戸数即時消留損害価格
全焼半焼
火災報知用電話192238115785,419
消防望楼7533319326868,048

火災報知用電話の無料化

1919年(大正8年)4月1日、逓信省は電話通話規則[53] の第26條を改正し[54]、火災報知用電話(東京・横浜・大阪)の無料化に踏み切った[55]


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