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朴正煕暗殺事件
各種表記
ハングル:10・26??
漢字:10・26事件
発音:シビリュク サーコン
日本語読み:10・26じけん
ローマ字転写:sibiyuk sageon
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朴正煕暗殺事件(パク・チョンヒあんさつじけん、ぼく・せいきあんさつじけん)は、1979年10月26日に大韓民国のソウル特別市で、朴正煕大統領と車智K大統領府警護室長が金載圭大韓民国中央情報部部長によって殺害された事件である。韓国では起きた日付から「10・26事件」、また発生した場所から「宮井洞事件」とも呼ばれている。 大韓民国中央情報部(KCIA)部長・金載圭は朴大統領の古い友人で、5・16軍事クーデターに参加はしなかったものの、朴大統領との良好な関係を保ちつつ軍の要職を歴任し、予備役入りして政治家に転じた後も要職を務めた後、KCIA部長に就任して腹心の一人となった。しかし、KCIA部長に就任後は数々の反体制派弾圧政策に携わる一方で民主化について度々言及し、朴大統領に「学生運動の弾圧が生ぬるい」としてしばしば叱責されるなどその関係が悪化していた。 また、これと並行して金は車智K大統領府警護室長との勢力争いを繰り広げていた。車は傲慢な振る舞いで政権の内外で恐れられた一方、朴大統領の信任厚い腹心の一人でもあり、金とはライバル関係にあった。車は金との関係は良くなく[1]、金が朴大統領に報告を上げる際にそれを妨害したり、ある時は先んじて同じ報告をしたり、ある時は報告中に意見を差し挟んだりした。金に自分から連絡する際には、車は職員に電話をかけさせて金が電話口に出るのを待ってから電話に出るなどの非礼な振る舞いをしていたという[2]。 加えて車は金との闘争の一環で私設情報隊を運営するなどKCIAの職責を侵害する振る舞いを見せた上、金が率いるKCIAが行っていた野党新民党の金泳三の総裁就任に対する阻止工作を警護室長としての立場を利用して妨害し[3]、金は工作に失敗した上に車にその責任を負わされてしまった。更に釜馬民主抗争への対応においては穏健策ではなく車が提唱した強硬策が朴大統領に採用され、これらの動きの結果、金は朴大統領の後継者争いから脱落したと見做されるようになった。このため、一説では金が両人に恨みを持ち、殺害を計画するようになったとも言われている。 10月26日夜、ソウル特別市鍾路区宮井洞(クンジョンドン)にあるKCIA所有の秘密宴会場で、歌手やモデルなどの部外者も出席の上で、大統領を迎えた晩餐が行われた。 この席上、朴大統領が金に対して、反政府学生らが釜山のアメリカ文化館を占拠した事件(釜馬民主抗争)について責任を追及すると、車室長も追従して、KCIAの無能振りを叱責した。叱責は長時間に及んだが、歌手らが晩餐会場に入って場の雰囲気が和やかになると、金は中座して直属部下の朴興柱(KCIA部長随行秘書官)と朴善浩(同儀典課長)を呼び、銃声が聞こえたら控え室の大統領府警護員(車の部下)を射殺するよう指示した。 ほどなくして金は晩餐会場に戻り、再び政治の話が始まったが、KCIAの失態に話が及ぶに至り、19時41分、金は「閣下、こんな虫けらのような奴を連れて、政治がちゃんとできますか?」と叫び[4]、まず車に対し会場に持ち込んだワルサーPPKを1発発砲して右腕を負傷させ、続けて朴の胸を撃って昏倒させた。しかし、金の拳銃が故障し、また銃声を電気のショートと勘違いした職員によってブレーカーが落とされたため、室内の電気が消えた。金は晩餐会場を一度出て、警護員らを射殺した朴善浩からリボルバーを借りると再び会場に戻り、まず棚を盾にしようとした車の腹部に1発銃撃して致命傷を与え、そして朴の側頭部にとどめとして1発銃撃した。このとき晩餐会場には、他に大統領府秘書室長の金桂元やホステス2名(歌手の沈守峰と女子大生兼モデルの申才順)も同席していたが、難を逃れた。 なお、この日の宮井洞には、金の招待によって陸軍参謀総長の鄭昇和大将が大統領一行とは別に訪れていた。しかし、大統領の接待をしなくてはならなかった金は、部下である第二次長補の金正燮に、宴会場とは別の部屋で鄭の相手をさせていた。 間もなく金は、自分が射殺犯であることを隠して鄭のもとを訪れ、鄭や朴興柱らを伴って現場を離れたが、自らの牙城である南山のKCIA庁舎ではなく陸軍本部に向かい、鄭昇和陸軍参謀総長に戒厳令の布告を迫った。しかし、軍上層部にそれほどのパイプもない金の説得は無為に終わる。その後、金桂元秘書室長の証言によって金の犯行が明らかになると、緊急国務会議で逮捕令が出され、27日0時40分に大統領殺害犯として国軍保安司令部により逮捕された。その直後に済州道を除く全国に非常戒厳令が敷かれ、鄭参謀総長が戒厳司令官に就任した。 捜査は戒厳司令部合同捜査本部長に就任した国軍保安司令官の全斗煥陸軍少将によって進められ、金とその部下らにはのちに軍事法廷で死刑が宣告された。朴正煕の死によって大統領権限代行となった崔圭夏国務総理は、事件の一報を耳にしたとき、「金日成がこの事を知ったらどうなることか」と涙ながらに語ったという。 朴正煕の訃報は、北朝鮮との対峙を続けている韓国では防衛上の見地からすぐには報じられず、その結果アメリカでの報道が先行したため、アメリカに友人・知人がいる韓国人は、いち早く大統領の死を知ることとなった。 この事件により、朴政権の3大中枢機関のうち、KCIAはトップが大統領殺害犯となったことから、また警護室は室長が殺害されたことからそれぞれ影響力を失い、残った国軍保安司令部の司令官兼合同捜査本部長である全斗煥と、参謀総長兼戒厳司令官の鄭昇和が実権を掌握した。しかし、鄭は事件当時現場に居ながら事実確認をしなかったことが弱みとなって大統領殺害の共犯容疑をかけられ、全によって逮捕されてしまう(粛軍クーデターの始まり)。軍部に疎く非常事態の収拾能力を持たなかった崔圭夏は、翌1980年にかけて全になし崩し的に実権を奪われ、第四共和国体制の終焉、第五共和国体制の成立へと繋がっていった。 30名を越える大弁護団が結成され、ロサンゼルスや国内の大学で助命運動が起こった。処刑後は、当局により墓碑の建立も禁じられた。
事件の経過
計画
射殺
捜査
事件の影響
事件関係者朴正煕と陸英修の墓
宴席の出席者
朴正煕 - 大韓民国大統領。
車智K - 大統領府警護室長。
金載圭 - 韓国中央情報部長。大統領と警護室長を射殺。のちに絞首刑。
金桂元 - 大統領府秘書室長。事件目撃者。共犯容疑で逮捕。
申才順
沈守峰 - 歌手。事件目撃者。
被害者
朴正煕…大統領。金載圭によって頭部、胸部に被弾、死亡。
車智K…大統領府警護室長。金載圭によって射殺。
鄭仁炯…大統領府警護処長。朴善浩
安載松
金容太…警護室特殊車両運行係長。死亡。
金纖ラ…警護員。死亡。
朴相範…警護室随行係長。重傷。
李ジョンオ…中央情報部食堂料理士。重傷。
金勇南…中央情報部食堂運転士。重傷。
犯人
金載圭…韓国中央情報部長。主犯。1980年5月24日絞首刑。
朴善浩…中央情報部儀典課長。