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1月蜂起または1863年蜂起(ポーランド語: powstanie styczniowe、リトアニア語: 1863 m. sukilimas)は、旧ポーランド・リトアニア共和国領(現在のポーランド、リトアニア、ベラルーシ、ウクライナ北部とロシア西端部)で発生したロシア帝国に対する武装蜂起。1863年1月22日に始まり、1864年4月11日に終結した。最後の反乱者たちが掃討された1865年まで続いたとする場合もある。
蜂起はポーランドの青年がロシア帝国軍に徴兵されることに対する抗議運動と同時に始まり、すぐにポーランド人やリトアニア人の高官や様々な政治家も参加した。反乱軍は規模が小さく、諸外国からの本格的な支援も無かったため、必然的にゲリラ戦術を採用することを余儀なくされた。彼ら反乱軍はいかなる軍事的勝利を得ることも、主要都市や要塞を占拠することも出来なかったが、小作農たちを民族運動から遠ざけようと企図された、ロシア領ポーランド地域における農奴制廃止の効果を薄れさせることには成功した。反乱の参加者たちには処刑やシベリアへの流刑といった残酷な報復が待っていた。こうしたロシア政府の厳しい対応のおかげで、ポーランド・リトアニアの人々はさらなる軍事闘争を引き起こすのをあきらめ、「有機的労働」(Organic work)の理念を受け入れて経済面や文化面での国力強化に専念するようになった。
蜂起前夜1861年、戒厳令が出されたワルシャワに駐屯するロシア軍
ロシア帝国がクリミア戦争に敗れて経済的、政治的に弱体化すると、旧ポーランド・リトアニア共和国領の社会情勢は不穏なものになっていった。ジュゼッペ・ガリバルディ、カール・マルクス、ミハイル・バクーニンらの思想に影響を受けた小作農や学生たちは、組織的な示威行動を開始した。1861年にはヴィリニュスだけでも116回のデモ行進があった。愛国者たちによる暴動が立て続けに起きた後、ロシア皇帝アレクサンドル2世の任命したポーランド副王カルル・ランベルト将軍は、1861年10月14日にポーランドにおいて戒厳令をしいた。集会が禁止され、一部の民衆指導者の行動が非合法と決められた。
蜂起の指導者となる人々はサンクトペテルブルク、ワルシャワ、ヴィリニュス、パリ、ロンドンに密かに結集していた。これらの人々が互いに接触や会合を続ける中で、赤党と白党という2つの主要な党派が形成された。小作農、労働者、一部の聖職者は赤党に、地主や知識人は白党にそれぞれ集まった。1862年には、この2つの指導的なグループが旧ポーランド・リトアニア共和国の支持勢力を構成していた。
旧ポーランド王国地域の蜂起1月蜂起中のポーランド会議王国における諸戦闘1月蜂起中のリトアニア、ラトビア、ベラルーシおよびウクライナにおける諸戦闘
蜂起は当時しばし平穏であったヨーロッパに新たな騒擾をもたらす形で始まった。ポーランド人を支援すべしという世論の強い声があったにもかかわらず、フランス、イギリス、オーストリアなどの列強国は、政治的な安定期が失われたことを苦々しく思っていた。潜伏していた蜂起の指導者たちは、ロシア領ポーランド王国政府首班のアレクサンデル・ヴィエロポルスキ伯爵によるロシア軍への徴兵命令を拒んで森に隠れていた青年たちに、武器や装備を提供する目処を立てられなかった。ほぼ約1万人が革命の旗の下に集まった。反乱に参加した者たちは主に都市部の労働者や若い事務員といった層を中心としていたが、貧窮シュラフタの次男以下の息子や、大勢の下級聖職者もかなりの割合で混在していた。
まともに武装もしていない反乱分子を始末するため、ロシア政府はラムゼイ将軍率いる9万人の軍勢をポーランドに送り込んだ。反乱はすぐに鎮圧されるかに思われた。しかし戦いの火蓋が切られ、反乱者の立ち上げたポーランド暫定政府は熱狂的に祖国回復の偉業達成へと邁進し始めた。彼らは「信条、身分、階層の区別のない自由にして平等な全てのポーランドの息子たち」に向けて声明を出した。声明は、小作農の耕している土地は、それが賃貸だろうが領主への奉仕で耕しているものであろうが、今後は無条件に彼らの財産とし、それに伴って領主が失うことになる土地の補償金は国立の中央銀行が拠出するとしていた。革命政府は2月のあいだ、ろくな武器もなく各地に散在した状態でゲリラ戦法を巧妙に駆使し、ロシア軍を相手に80回もの激戦を繰り拡げた。一方、蜂起の声明は西ヨーロッパ諸国に向けても出され、北はノルウェーから西はポルトガルまで、どの地域でも真からの同情を以て受け止められた。ローマ教皇ピウス9世はカトリック国ポーランドが正教国ロシアに対する防衛に成功するべく、特別の祈りを捧げるよう信徒に呼びかけた。この呼びかけはポーランド人に対するヨーロッパ人の共感を大きく高めた。 リトアニア、ベラルーシ、ラトビア、ウクライナ北部およびロシア西部での蜂起は1863年2月1日に始まった。赤党と白党の合同政府が結成され、ジグムント・シェラコフスキ
旧リトアニア大公国地域の蜂起
蜂起が始まって24時間のうちに、リトアニア中の兵器工場が奪取され、多くのロシア人官吏が公開処刑にされた。1863年2月2日には、マリヤンポレ近郊のチスタ・ブーダで、ロシア軍の驃騎兵部隊と大半が大鎌で武装したリトアニア人農民との最初の大規模な戦闘が起きた。この戦闘は準備不足な農民たちが一方的に虐殺される形で終わった。短期決戦が望ましいと考えた反乱者の各グループは、結集してより大きな部隊を作り、さらに新たな参加者を求めた。4月7日、2500人の武装兵を集めることに成功していたジグムント・シェラコフスキは、復古したポーランド・リトアニア共和国の総司令官に選出された。シェラコフスキに率いられた農民軍は、苦戦を強いられつつも何度か勝利を手にした(4月21日のラグヴァの戦い、5月2日のビルジャイの戦い、5月7日のメデイケイの戦い)。しかし数週間にわたって続いた行軍と戦闘に疲れ果て、5月8日にグディシュキース近郊で行われた戦いには敗北した。
展開1月蜂起におけるポーランドの国章。ポーランド・リトアニア共和国を構成した3民族の国章、ポーランドの「白鷲」、リトアニアの「騎手」、ルテニア(ウクライナとベラルーシ)の「大天使ミカエル」が一緒に描かれている。1月蜂起におけるポーランドの旗大鎌で武装した蜂起軍の農民兵
反乱者の国民政府は、貴族支配に対する不満が広がっていると思われたロシアで、革命が起きることを期待していた。またフランス皇帝ナポレオン3世の積極的な支援をも当てにしていた。ロシアと友好関係を持ち、ポーランドで起きた蜂起の鎮圧を援護するとまで申し出たプロイセンと、フランスとの戦争は当時不可避なものとなりつつあり、ポーランドとフランスは共通の敵を持つ同盟者になりうると考えられたのである。ロシアとプロイセンとの協定は2月14日には結ばれ、ベルリン駐在のイギリス大使は本国政府に対し以下のように伝えている、プロイセンの特使は「ロシア政府との軍事協定を取り決めた。これによると両国政府は近年ポーランドとリトアニアで起きている反政府活動の鎮圧に関しては、相互補完的にお互いの便宜を図り合うとのこと。ロシア軍当局はプロイセンの鉄道を利用して、自国の軍隊をプロイセンの支配する旧ポーランド・リトアニア共和国地域に送り込むことが出来るようになる」。