この本は1956年に音楽之友社から出版され瞬く間に売れ[要出典]、レナード・バーンスタインから賞賛されるなど、齋藤の遺した最も大きな仕事の一つである。
弟子の伊吹新一は、「指揮の運動をメソッド化して教える方法は、斎藤秀三郎の「熟語本位英和中辞典
」と多くの近似点を持っていること。また、この本に書かれたことは齋藤の教えそのものではなく、一般向けに内容を平易化しているために誤った理解がなされていること」を力説している[要出典]。また、齋藤の没後、小澤征爾など齋藤のもとで指導を受けた門下生が編集委員となり、英訳版である“ THE SAITO CONDUCTING METHOD ”が音楽之友社より出版された。 最初の妻はドイツ人[13]。2度目の妻である秀子は男爵小畑美稲(裁判官)の長男大太郎(第十五銀行勤務)の次女[14]。秀子の姉春子は、大山巌の孫にあたる伯爵渡邉昭(ボーイスカウト日本連盟総長)の妻[15]。 秀雄の妹の敦子は、渋沢栄一ならびに橋本実梁(はしもと さねやな、伯爵。元老院議官)の孫の渋沢信雄(貿易商、実業家)と結婚した[16]。そのため信雄と敦子の長男である渋沢裕(元ソニー取締役)は秀雄の甥になる。 また、秀雄の母方の祖母・前島久(ひさ。旧姓大津)は、小澤征爾の母方の曾祖父・大津義一郎の実妹である[17]。
人間性
門下生だった山本直純によると、齋藤は喫煙中毒者であり、ニコチンが切れると苛立って教え子に当たり散らし、譜面台を蹴り倒して楽譜を散乱させることもあったという[7]。門下生の小澤征爾は高校時代、齋藤から指揮棒で叩かれたりスコアを投げつけられたりするなどの体罰を日常的に受けていたため、あまりのストレスから自宅の本箱のガラス扉を拳で殴りつけ、大怪我をしたこともある[8]。また堤剛によれば、指導中にくわえ煙草でチェロを弾くことも多く、愛器を修理に出した際に胴体から数年分の灰が出てきたことがある[9]。灰を除いたチェロの音については、良くなったという生徒もいれば、味を失ったと評する生徒もいたという[9]。
齋藤は教え子に常々「10回やったら10回全部できなかったら、音楽じゃない。もし演奏会のときできなかったら、どうするんだっ」[10]と説いていたが、齋藤自身は極端な上がり症であり、本番の演奏会で指揮する時は練習の時と全く異なり「先入」という指揮法をやたらに多用した[11]。意識的にやっていたのかと思った小澤征爾から「先生、今日は『先入』ばかりでしたね」と言われると、齋藤は逆上して「そんなこと言うな! 俺は先入なんかやるつもりはないけど、そうなるんだ!」と怒鳴った[11]。
宮沢賢治のセロ弾きのゴーシュの中に出てくる管弦楽団の厳しい楽長(指揮者)のモデルは、ちょうど留学から帰ったばかりで厳しい指導をしていた新交響楽団での齋藤の姿から考えたのではないか、という説がある。新交響楽団の練習を賢治が上京時に見学した時期と一致しているためである[12]。
係累
作曲
マンドリン小二重奏曲「蚊トンボ」
フランス民謡「歌えよ小鳥やよ歌え」の主題による八つの変奏曲
管弦楽のための「お才」
大東亜戦争行進曲「紀元二千六百一年」
関連文献
『齋藤秀雄・音楽と生涯 心で歌え、心で歌え!!』民主音楽協会、1985年
『齋藤秀雄講義録』白水社、1999年。1972年 - 1974年におこなった講義の内容
中丸美繪『嬉遊曲、鳴りやまず 斎藤秀雄の生涯』新潮社 1996年(新潮文庫、2002年)
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 秀雄は終生この一番町に住み、1973年4月、三井不動産社長江戸英雄の仲介により自宅を一番町パークマンションに建て替え、その8階をレッスン室に、9階を住居に使用していた[要出典]。
^ 齋藤は新日本フィルハーモニー交響楽団の永久指揮者である[6]
出典^ 留学期間を過ぎても帰国せず、父の秀三郎が学費を送らないと告げたが、現地のオーケストラに入って生計を立てていたのでそれは無用と書き送ったらしい。小澤さくら『北京の碧い空を』(1991年4月、二期出版)、250頁。
^ 『遠山一行著作集』第5巻所収「誇張の芸術」p.165(新潮社、1987年)