黛敏郎
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9月に10日ほど帰国。10月7日から黛作曲部分の録音が開始、11月末まで作曲と録音が続いた。

5月15日、『君も出世ができる』で第12回アジア映画祭音楽部門賞受賞。5月28日、《打楽器協奏曲》をローマにて完成。同曲は7月11日アメリカで初演。

1967年2月16日、《BUGAKU》が第15回尾高賞受賞。

4月10日、映画『天地創造』でアカデミー作曲賞第39回)にノミネート[1]。それに先立つ2月15日には、ゴールデングローブ賞 作曲賞(第24回)にノミネート[2]

1968年、『題名のない音楽会』と『NNNワイドニュース』の司会に対して、第5回ギャラクシー賞を受賞[3]

1970年、日本万国博覧会のテーマ館サブプロデューサーを含め、パビリオンの音楽、お祭り広場の音楽、開会、閉会式の音楽他を担当した。

1982年4月22日、オラトリオ「日蓮聖人」初演。10月18日、サントリー作曲家の個展「黛敏郎」で《涅槃交響曲》と演奏会形式でのオペラ《金閣寺》日本初演[4]

1983年5月4日、阿含宗委嘱による《大佛讃歌》初演。

1986年4月16日、バレエ《The KABUKI》初演。同作品はパリ・オペラ座、ミラノ・スカラ座ウィーン国立歌劇場ベルリン国立歌劇場ボリショイ劇場マリインスキー劇場等海外の劇場でも喝采を受け、世界中で150回以上の上演回数、22万人が鑑賞している。

1991年3月8日、舞台形式によるオペラ《金閣寺》日本初演[5]

1993年7月16日、オペラ《古事記》完成。7月31日、バレエ《M》初演。

1996年2月20日武満徹葬儀の際には、『MI・YO・TA』のメロディを何度も繰り返し歌った。この曲は、武満がかつて黛の下で映画音楽のアシスタントをしていたとき書いたものであった。しかし、映画音楽に使われることはなく、メロディは黛の記憶にしまわれていた。その後、谷川俊太郎が詞をつけ、出来上がったのが『MI・YO・TA』である[6]

題名のない音楽会の収録[7]中に体調不良を起こし、即日入院。1997年4月10日、肺を原発巣とする転移性肝腫瘍による肝不全のため入院中の神奈川県川崎市内の総合新川橋病院で死去、68歳没。墓所は、神奈川県にある曹洞宗大本山總持寺の境内墓地。戒名は「威徳院優嶽叡敏居士」。5月末に「日本を守る国民会議」と「日本を守る会」が合同して結成された日本会議の初代会長に就任予定だった。

1997年11月27日、29日 大阪音楽大学の「ザ・カレッジ・オペラハウス」でオペラ『金閣寺』上演[8]。黛敏郎の追悼公演となった。

1998年7月2日、「黛敏郎追悼演奏会」で『シンフォニック・ムード』『トーン・プレロマス55』『呪(しゅ)』『涅槃交響曲』を演奏。岩城宏之指揮、東京混声合唱団東京交響楽団。同年8月31日、未完絶筆作品『パッサカリア』初演(完成部分まで、演奏時間4分、続けて2度上演)。岩城宏之指揮、オーケストラ・アンサンブル金沢第67回定期公演。
人物
政治活動

1958年石原慎太郎江藤淳大江健三郎谷川俊太郎寺山修司永六輔福田善之ら若手文化人らと「若い日本の会」を結成。翌年から本格化する安保改定反対運動に参加した[注 2]


1975年の東京都知事選挙では、石原慎太郎の選挙母体「新しい東京をつくる都民の会」の代表を務めた[9]


1970年代前後[注 3]転向。当時の楽壇では珍しく保守派文化人となり、1970年代後半に結成され論憲・改憲を提唱する「日本を守る国民会議」議長を務めた。だが、この頃から純音楽の創作は曲の歌劇(『金閣寺』と『古事記』)などを除き極端に減り、後期の作品は生活のために書いた上記の宗教音楽や実用音楽などが主となった。これを「このような保守的政治運動のために左派色が強い楽壇からは事実上排斥された」ためと説明する論考もある。


1977年夏、保守派の活動を通じ親交があった中川一郎(当時自民党国民運動本部長)の要請を受けて、新たに創設された党友組織自由社会を守る国民会議(自由国民会議)の初代代表に就任し終身務めた。


1992年夏、「国民会議」議長として、宮澤内閣官房長官であった加藤紘一らが中心に進めた天皇(明仁)・皇后(美智子)の訪中反対国民運動の先頭に立ち、中川や自身の共通の親友石原慎太郎や、中川の長男中川昭一平沼赳夫(中川の秘書でもあった)らと共闘した。


死去してから約ひと月後の1997年5月30日、「日本を守る会」と「日本を守る国民会議」を統合して「日本会議」が設立された[10]。黛は同団体の初代会長に就任予定だった。

その他

元女優の
桂木洋子は妻。演出家黛りんたろうは長男。長男の嫁は平淑恵。弟に朝日新聞学芸部編集委員だった黛哲郎がいる。

作曲家にありがちなことであるが、専門の教育を受けていないにもかかわらず自作の指揮をすることがしばしばあった。代表的な録音に「立山」がある。一方で、黛が指揮をする際は盟友の岩城宏之が常にハラハラしていたという。

ベルリン・ドイツ・オペラ支配人のルドルフ・ゼルナーが日本を舞台にしたオペラを制作したいと提案。これを仲介した吉田秀和が黛を紹介したことから、『金閣寺』が作曲されることとなった。

代表作20代の黛(詳細な撮影時期は不明。人物テンプレートの当時とは別の時に撮影されたもの)
管弦楽

ルンバ・ラプソディ(1948年)- 恩師の
伊福部昭(2006年死去)の晩年にあたる2004年に、伊福部の自宅から黛の楽譜が発見され、蘇演された。

シンフォニック・ムード(1950年)- 原題は交響的気分「スフィンクス」

饗宴(1954年)

フォノロジー・サンフォニック(1957年)

カンパノロジー(1957年)

涅槃交響曲(1958年・第7回尾高賞受賞作品)

曼荼羅交響曲(1960年)

交響詩「輪廻」(1962年)

音楽の誕生(1964年)

木琴小協奏曲(1965年)

交響詩「立山」(1971年)

G線上のアリア(1978年)

21世紀へのラプソディ(1991年)

パッサカリア(1997年/絶筆・未完)

オペラ

金閣寺(1976年)-
三島由紀夫の小説「金閣寺」による

KOJIKI(1996年)

MINOKO(1964年・未完)- 三島由紀夫の書き下ろし台本による(日生劇場のこけら落としのために小澤征爾指揮で初演予定だった)

バレエ音楽

思い出を売る男(1953年)加藤道夫の戯曲「思い出を売る男」によるシャンソンバレエ。

BUGAKU(1962年・第15回尾高賞受賞作品)

ザ・カブキ(1986年・オーケストレーションは鈴木行一、南聡ら門下がアシスタントをした[注 4]


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