黒部ダム
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作業員延べ人数は1,000万人[8]、工事期間中の転落やトラックトロッコなど労働災害による殉職者は171人にも及んだ[4](ちなみに黒部第三ダム建設時には、建設現場以外で宿舎(飯場)が2度の泡雪崩の被害を受け108名、ダイナマイト自然発火事故で8名が死亡した)。

1956年昭和31年)着工当時、「電力開発は1万kW生むごとに死者が1人出る」と言われていた[7]。完成時、25万kWを生み出した黒部ダムの建設工事で171人の殉職者を出したことは、人が行くこと自体が当時命がけだった秘境の黒部峡谷でのダム建設の困難さを示している。また当時、黒部峡谷のダム建設現場では「黒部にケガはない」と言われていた。しかしその言葉の意味は、工事での労働災害が無いという意味ではなく、「落ちたらケガでは済まない」という意味であり、工事のミスは即死を意味した[7]

前述のように「黒四ダム」の別称もあるが、関西電力は公式サイトなどでも「黒部ダム」としている[13]。また、日本ダム協会によれば、「黒四ダム」の名は仮称として用いられ、後に正式名称が「黒部ダム」となった[9]。完成時には「黒四ダム」と呼ばれることが多かったが、最近では一般に「黒部ダム」と呼ばれるようになっている。また、かつては図鑑などで「黒部第四ダム」と書かれていたこともある。
沿革黒部ダム湖周辺の空中写真。(1977年撮影の7枚より合成作成)。国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成このバケットにコンクリートを入れ、200メートル谷底までクレーンで下ろした

黒部ダムが建設された地点は黒部川の水量も多く、水力発電所設置に適した場所であることは大正時代から知られていた。ただ、第二次世界大戦があり、黒部川の開発は下流の仙人谷ダムおよび黒部川第三発電所に留まっていた。また、計画立案から建設開始までには、景観保護を訴える国立公園行政当局や国立公園協会、冷水の農業への影響や水害を心配する黒部川流域住民等による建設反対の動きもあった[14]

1928年(昭和3年)、日本電力がダムの高さ 120m、最大使用水量30m3/秒、最大出力 126,000kW を立案し、立地調査が行われた[14]。しかし、国立公園内であることから国立公園行政当局および国立公園協会などは建設に反対した。1928年11月18日、黒部景観問題協議会が反対集会を実施[14]。1941年には戦時体制になり計画は消滅した。

1945年以降、日本の電力需要のほとんどは水力発電所により賄われていたが、渇水になると各地で停電が相次いだ。関西地方では、1951年の秋に深刻な電力不足に陥り、一般家庭で週3日の休電日が設けられたが、休電日に関わらず連日のように停電していた[15]。こうした状況は高度経済成長期を迎えた昭和30年代にも続き、工場で週2日、一般家庭では週3日、電力使用制限が行われていた[注釈 5]

1949年頃、日本発送電が黒部第四発電所建設計画を復活させ調査を再開した[14]。ダムの高さ176 m、体積213万 m3、有効貯水量1億4,700万 m3、最大使用水量30 m3/秒、有効落差533 m、最大出力137,000 kW の1928年の計画を超える規模のダムと発電施設が立案された。この計画案は「KAOS」とも呼ばれたが、日本発送電の解散により頓挫した[14]

1950年8月上旬から行われた現地調査以前のKAOS構想は、針ノ木峠の下に延長5キロメートルの針ノ木トンネルを掘削して長野県側にも導水、発電や松本盆地の灌漑用水に利用する計画案であった。針ノ木トンネルの工事は、技術的に見て難しいものではないとの見通しが立てられていた[16] が、大町トンネル工事が破砕帯に直面して難工事となったこともあり立ち消えとなった。

1951年関西電力は日本発送電の黒部第四発電所建設計画を引き継ぎ、1951年9月から再調査が実施された[14]

1955年になると建設に向けた具体的な動きが加速し、黒部第四発電所建設計画が国、県で承認され[14]、1955年6月 KAOS計画案を大きく修正した最終計画案が作成された[14]。1955年7月調査工事の為の、中部山岳国立公園特別地域内工作物新改築・土石採掘・木竹伐採の許可申請が認められた。

1956年5月18日、政府の電源開発調整委員会は黒部第四発電所建設計画を承認[14]。6月30日、厚生大臣が建設許可[14]。7月に着工した。実施案に基づいたダム建設にあたって工区を5つに分割し、それぞれに異なる建設会社が請け負った。
第1工区…間組
黒部ダム、取水口、導水トンネル、大町トンネル(現・関電トンネル)、御前沢渓流取水工事。ダム工事現場の責任者は、黒部大ダム建設所堰堤課長兼設備課長の中村精。総責任者は、名古屋支社長の小倉兼友。
第2工区…鹿島建設
骨材製造工事。
第3工区…熊谷組
関電トンネル、黒部トンネル、導水路トンネル工事。
第4工区…佐藤工業
黒部トンネル、導水路トンネル、調圧水槽、トラムウェイ・ロープウェイ工事。
第5工区…大成建設
水圧鉄管路、インクライン、黒四発電所、変電所開閉所、放水路、上部軌道トラムウェイ・ロープウェイ工事。

黒部ダム建設工事現場はあまりにも奥地であり、初期の工事は建設材料を徒歩やヘリコプターで輸送するというもので、作業ははかどらず困難を極めた。このためダム予定地まで大町トンネル(現在の関電トンネル)を掘ることを決めたものの、トンネル内の破砕帯から大量の冷水が噴出し、大変な難工事となった。このため別に水抜きトンネルを掘り、薬剤とコンクリートで固めながら(グラウチング)掘り進めるという当時では最新鋭の技術が導入され、その結果9か月で破砕帯を突破してトンネルが貫通、工期が短縮された(詳細は関電トンネルの項も参照)。

1959年9月18日に御前沢でダムの定礎式が行われ、1960年10月1日の湛水開始[17]を経て、1963年6月5日に完成、同年8月28日には皇太子(現・上皇)夫婦がご探勝された[3]

1965年6月4日にダム付近に記念像『尊きみはしらに捧ぐ』が除幕された。1969年6月には黒部湖の遊覧船『黒部丸』が運行を開始している[18]

2006年時点での土砂堆積率は14%であり、ダム本体の耐久性と併せて考えると、これからも約250年はダムとして機能すると見込まれている[19][リンク切れ]。
特徴

当初の計画では単純な円弧状のアーチダムであったが、1959年マルパッセダム決壊事故を受け、両岸の基礎となる岩盤を調査したところ亀裂が見つかり[8]、予想以上に脆いことが判明。設計変更を実施し、両側がウイング状に変更となった。ウイング部はアーチダムではなく重力式ダムである[20]。またアーチ部を川下に向かって傾斜させることにより、水圧を両岸に逃がすのではなく、下向きの力へと変化させることでダム下部の岩盤に支えさせる構造となっている[20][21]

ダムから川へ放水する際には霧状にしている。これは放水の勢いで川底が削れてしまうのを防ぐためである[注釈 6]

ダム建設時、関西電力に勤務していた電力土木技術者・技術士である一方日本美術家連盟会員や一水会会友でもあった熊沢傳三は自著[22][23] で、黒部ダムのダムの堤頂歩道の線形とハンドレールについて実際にデザインを任されたことを記述して残してある。事の経緯は堤頂歩道をどうするか、当時橋梁手摺などの資料を中心に参考資料を収集していた上司から意見を求められ、自著に書いてある私見[24] をいくつか述べると、早速その日の夕方から実際に設計を任されたというもので、6時間ほどかけてその特徴を加味してデザインを仕上げたとしている。

2020年土木学会選奨土木遺産に選ばれる[25]
観光と登山

黒部ダムは日本を代表するダムの一つであり、周辺は中部山岳国立公園でもあることから、立山黒部アルペンルートのハイライトの一つとして多くの観光客が訪れる。


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