黒田内閣
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伯爵枢密院議長転任[注釈 4]

辞令のある留任は個別の代として記載し、辞令のない留任は記載しない。

臨時代理は、大臣空位の場合のみ記載し、海外出張時等の一時不在代理は記載しない[注釈 5]

代数は、臨時兼任・臨時代理を数えず、兼任・兼務は数える。


三条暫定内閣

1889年(明治22年)10月25日任命[10]。在職日数61日。

職名代氏名出身等特命事項等備考
内閣総理大臣-三条実美公家
公爵内大臣初入閣
外務大臣7大隈重信旧肥前藩
伯爵留任[注釈 6]
内務大臣1山縣有朋旧長州藩
陸軍中将
伯爵留任
大蔵大臣1松方正義旧薩摩藩
伯爵留任
陸軍大臣1大山巌旧薩摩藩
陸軍中将
伯爵留任
海軍大臣1西郷従道旧薩摩藩
海軍中将
陸軍中将
伯爵留任
司法大臣1山田顕義旧長州藩
陸軍中将
伯爵留任
文部大臣2榎本武揚旧幕臣
海軍中将
子爵留任
農商務大臣4井上馨旧長州藩
伯爵留任
1889年12月23日免[11]
-(欠員)1889年12月24日まで
逓信大臣2後藤象二郎旧土佐藩
伯爵留任
班列-伊藤博文旧長州藩
伯爵枢密院議長留任
1889年10月30日[注釈 7][12]

辞令のある留任は個別の代として記載し、辞令のない留任は記載しない。

臨時代理は、大臣空位の場合のみ記載し、海外出張時等の一時不在代理は記載しない。

代数は、臨時兼任・臨時代理を数えず、兼任・兼務は数える。


内閣書記官長・法制局長官

1888年(明治21年)5月28日任命[13]

職名代氏名出身等特命事項等備考
内閣書記官長2小牧昌業旧薩摩藩
法制局長官2井上毅肥後藩留任

辞令のある留任は個別の代として記載し、辞令のない留任は記載しない。

臨時代理は、空位の場合のみ記載し、海外出張時等の一時不在代理は記載しない。

代数は、臨時兼任・臨時代理を数えず、兼任・兼務は数える。


勢力早見表

※ 内閣発足当初(前内閣の事務引継は除く)。

出身藩閥国務大臣その他
くげ旧
公家0
さつま旧薩摩藩5
ちょうしゅう旧長州藩3
とさ旧土佐藩0内閣書記官長
ひぜん旧肥前藩1
ばくしん旧幕臣1国務大臣のべ2
をその他の旧藩0法制局長官
-10国務大臣のべ11

内閣の動き
黒田内閣

伊藤博文大日本帝国憲法の制定に専念するため総理を辞して初代枢密院議長に転じることになり、後任には薩摩閥の中心的存在のひとりで農商務大臣として閣内にあった黒田清隆を推奏した[14]。黒田は自分が務めていた農商務大臣を逓信大臣榎本武揚に兼務させたほかは、全閣僚を留任させて新内閣を発足させた(農商務大臣には後に井上馨を専任)。

黒田内閣の役目は、憲法制定と議会開設によって再燃が予想された自由民権運動に対する取締り強化と、欧米列強との間に交わされたままとなっていた不平等条約改正を実現することであった。

大日本帝国憲法、衆議院議員選挙法が公布された翌日(1889年(明治22年)2月12日)、黒田は鹿鳴館で開催された午餐会の席上において「超然主義演説」を行って政党との徹底対決の姿勢を示したが、その一方で立憲改進党前総裁(実質は党首)で外務大臣大隈重信を留任させて条約改正の任にあたらせた。また文部大臣の森有礼の暗殺後、榎本武揚が文部大臣に移動して空席となった逓信大臣には、大同団結運動の主唱者であった後藤象二郎を充てて、同運動を骨抜きにすることで自由民権諸派の団結を阻止した。また条約改正の分野でも、メキシコとの間に平等条約である日墨修好通商条約を締結することに成功、列強との条約改正交渉も順調に行くかに見えた。

しかし外務省が用意した改正草案に妥協案として「外国人裁判官の任用」の条項が含まれていたことが明らかになると、蜂の巣を突いたような大騒動となった。一旦解体したはずの大同団結運動が今度は板垣退助を擁して再燃し、政府内からも山縣有朋・後藤象二郎・伊藤博文・井上馨らが妥協案に反対する意志を示した。黒田は大隈を擁護したが、条約改正交渉は中断に追い込まれた。そこへ来て10月18日には、馬車で外相官邸に入ろうとした大隈に国家主義団体玄洋社団員来島恒喜が爆烈弾を投げつけ、大隈が右脚切断の重傷を負うという椿事が発生した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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