黒澤明
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^ 黒澤優の夫は、歌手の松岡充である。
^ 勇の先祖は代々神職をしていたが、戊辰戦争官軍に味方し、その功績で帯刀を許されて士族になった[5]
^ その5つの作品は『建築場に於ける集会』(水彩画)、『農民習作』『帝国主義戦争反対』『農民組合へ』(以上油絵)、『労働組合へ』(ポスター)である[22]
^ 黒澤の自伝によると、丙午(須田貞明)は「30歳になる前に死ぬ、人間30を越すと醜悪になるばかりだ」と口癖のように言っていたという。丙午はアルツィバーシェフの『最後の一線』を「世界最高の文学」と推奨し、主人公の自殺への信条に賛同していて、黒澤はそれが文学青年である兄の誇張した考えに過ぎないと思っていたが、兄の口癖の通り27歳で自殺した[24]
^ 東宝の助監督はサード、セカンド、チーフと昇進するが、プロデューサー・システムを導入して製作者の権限を強化していたこともあり、チーフ助監督を「製作主任」と呼んでいた。黒澤はセカンドをやらずにチーフに昇進している[16]
^ a b 黒澤は『わが青春に悔なし』の完成前に、山本と関川秀雄とともに『明日を創る人々』(1946年)を共同監督しているが、黒澤はこれを「自分の作品とは思えない」として自作のリストから外している[45]
^ 時代劇三部作は、黒澤が小國英雄菊島隆三橋本忍と企画を練り、当初は『蜘蛛巣城』(本多猪四郎監督)、『隠し砦の三悪人』(鈴木英夫監督)、『仇討ち』(堀川弘通監督)で決定したが、『仇討ち』は話が暗いとして取り上げず、『用心棒』に変更された[57][62]。『仇討ち』は1964年今井正監督で『仇討』として映画化された[62]。最終的に三部作は『蜘蛛巣城』『どん底』『隠し砦の三悪人』となった。
^ 『嫉妬』の他のエピソードは、キャロル・リードジャン・コクトーヴィットリオ・デ・シーカロベルト・ロッセリーニが担当する予定だった[34]
^ 1976年に文化功労者に打診されたときは「政治が映画に関心を持ってくれた」と受け止めてもらうことを決め、受章時のインタビューでは、各国とも文化政策の一環として映画に力を入れているが、日本の政治は映画に無関心であると主張した。また、日本映画界をめぐる危機感についても言及し、このままだと残るのはポルノと暴力ものだけで、次々と名監督が無くなる中、残った私は日本映画の荒廃に責任を感じていると語った[67]
^ 黒澤は『黒き死の仮面』の舞踏会のシーンをフェデリコ・フェリーニに演出させ、手塚治虫のアニメーションを部分的に使うことも考えていた[34]。1976年に手塚は「黒澤さんね。日本では作れなくて、ソ連で『デルス・ウザーラ』を作ったけれど、また今度、ソ連で映画を作るんです。そのとき、ぼくは黒澤さんといっしょに仕事することに…。(中略)恐怖映画なんだ。エドガー・アラン・ポーの短編を映画化するんだ[89]」と述べている。
^ 黒澤の監督賞ノミネートに向けた運動を行うと表明したルメットは、『乱』がD・W・グリフィスの『イントレランス』やアベル・ガンスの『ナポレオン(英語版)』と並ぶ傑作になると信じ、このような美意識と奥深さを結びつけることが出来るのは黒澤だけだと語った[98]
^ a b 自作と認めている30本のうち、脚本にクレジットがないのは『わが青春に悔なし』と『素晴らしき日曜日』の2本だけだが、この2本も黒澤が脚本に参加している[34]
^ 東宝の大部屋俳優であった中島春雄は、完璧主義者の黒澤は時代劇でも現代劇と同様のリアルで自然な芝居を追求していたといい、東映時代劇調の大仰な芝居では通用しなかったことを証言している[122]
^ 外国の優れた脚本家に贈られる賞で、黒澤のほか橋本忍菊島隆三小国英雄の3人も合わせて受賞した。

出典^ 田草川 2006, p. 368.
^ 島 1991, p. 83.
^ a b c 岩本憲児「黒澤明」『世界映画大事典』、日本図書センター、2008年7月、p. 310。
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