黒海
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黒海はそれ自体が重要な交通路となっているほか、流れ込む河川交通との連結運輸も重要となっている。ドン川からはヴォルガ・ドン運河を通してヴォルガ川カスピ海と結ばれ、さらにヴォルガ川からはヴォルガ・バルト水路を通じてバルト海と、さらにその途中のラドガ湖白海・バルト海運河によって白海まで内陸水運のみで繋がれている。また、西ではドナウ川からライン・マイン・ドナウ運河を通じてマイン川ライン川へ、さらに北海へと結ばれている。
歴史

南西にイスタンブールがあり、古くから東ローマ帝国オスマン帝国の首都があったことから、黒海地域の歴史は複雑である。オスマン帝国時代には対ウクライナなどの黒海貿易もあった[4]。黒海が位置するのがアジアとヨーロッパの境界線上であるため、中東史、ヨーロッパ史ロシア史のどの分野でも記述される機会が少なかったが、少しずつ黒海周辺を一つの地域として黒海歴史研究をする学者が出てきている[5]
古代

紀元前7世紀頃から、ボスポラス海峡を通ってギリシャ人が黒海沿岸各地に植民を始め、タナイスパンティカパイオン、オルビア(英語版)といった植民市が各地に建設されていった。これらの植民市は北の草原地帯に住むスキタイ人やサルマティア人らの遊牧国家から彼らの支配地の黒海沿岸黒土(チェルノーゼム)地帯の農耕民から徴税した穀物や戦争捕虜の奴隷を購入し、ぶどう酒武器などのギリシャの産物とを取引して力を付けていった。また、これらの植民諸都市、とくにタナイスは東西交易路の一つ、ステップ・ルート(草原の道)の西端にも当たっており、黒海はこの頃にはすでに東西交易の重要なルートとなっていた[6]

スキタイ人の手により東方の産物が植民都市に持ち込まれ、ギリシャ人によって地中海世界へと運ばれていった。この交易の様子はヘロドトスの「歴史」にも描かれている。そして紀元前5世紀にはこれらの植民市を統合してボスポロス王国が成立し、穀物などの貿易を基盤にして国力をつけていった。ボスポロス王国はのちにローマ帝国の従属王国となりつつ4世紀頃まで存続したが、フン族によってほぼ滅ぼされた。紀元前1世紀にはいると、ポントス王国など黒海南岸の諸国はすべてローマ帝国の領域となり、ローマの勢力圏となった。
中世地図中の青線(バルト海上の紫線を含む)が「ヴァリャーグからギリシアへの道」を示す

ローマ帝国が衰亡し変質していく中、コンスタンティヌス1世330年にローマ帝国の首都をローマからコンスタンティノープル(現イスタンブール)へと遷都する。395年のローマ帝国の東西分裂後は、コンスタンティノープルは東ローマ帝国の首都となり、人口数十万を擁する世界有数の大都市となっていった。コンスタンティノープルは短いボスポラス海峡を通じて黒海に直結しており、この大都市の出現により黒海交易はさらに盛んになった。東ローマ帝国自体も、黒海北岸の古いギリシア植民都市であるケルソネソス(セヴァストポリ)およびその付近のクリミア半島南岸を手中に治め、黒海を掌握していた。

650年頃、それまで西突厥の宗主権下にあったハザール・カガン国が独立し、カスピ海から黒海北岸を勢力下においた。ハザールはイスラム帝国とは敵対する一方、東ローマとは基本的に友好的な関係を維持した。またハザールは商業を保護し、バルト海からヴォルガ川を通ってカスピ海・黒海へと向かう、ヴァリャーグからギリシャへの道(下記)の西よりルートを活性化させ、またステップ・ルートの再活性化にも努めた。ハザールの黒海北岸支配は10世紀まで続いた。

9世紀前半以降、ヴァイキングの一派であるスウェーデン人ヴァリャーグ)によって、「ヴァリャーグからギリシアへの道」と呼ばれるバルト海と黒海を結ぶ交易ルートが開設される。ルーシを貫き、ノヴゴロドからキエフを通りドニエプル川で黒海へと向かうこのルートは、ヨーロッパの南北を東側で結ぶ主要ルートとなり、キエフ大公国などのルーシ諸国家を東ローマ帝国と強く結びつけた。この時期に、東ローマの国教であるギリシア正教がロシアに受容されている。

第四次十字軍によって東ローマ帝国が一時滅亡すると、十字軍側のラテン帝国に付いたヴェネツィア共和国および、東ローマの後継国家であるニカイア帝国と結んだジェノヴァ共和国が古代ギリシャと同様の対遊牧国家の黒海交易へと進出し、1261年の東ローマ帝国復活後はジェノヴァが黒海交易を握り、ケルチ半島のカッファなどに植民地を築いた。

しかし、14世紀に入るとアナトリア半島に興ったオスマン帝国が勢力を拡大し、1453年にはコンスタンティノープルを落として東ローマ帝国を滅亡させ、コンスタンティノープル(イスタンブール)に首都を置いた。黒海とバルカン半島、アナトリア半島を繋ぐ要地に大帝国が本拠を置いたことで、これ以後黒海の制海権はオスマン帝国が握ることとなる。1475年には黒海北岸にあったモンゴル帝国北西分国ジョチ・ウルスの末裔、クリミア・ハン国を従属国とし、クリミア半島南岸に残っていたジェノヴァの植民地もオスマン帝国が直轄領としたことで、黒海はオスマン帝国の内海となった。
近代オデッサ市の象徴・ポチョムキンの階段1841年に建設された。

この状況が変化するのは、露土戦争 (1768年-1774年)に勝利したロシア帝国1774年キュチュク・カイナルジ条約によってアゾフおよびケルチを獲得し、黒海北岸に橋頭堡を築いてからである。ロシアはそれまで首都サンクトペテルブルクほかわずかな港しか持っておらず、それも冬季にはすべて結氷するものであり、不凍港の獲得は悲願であった。この条約においてはロシアに黒海・地中海の自由航行権も認められ[7]、ここを足掛かりにロシアは黒海へ進出していく。

1776年にはセヴァストポリ黒海艦隊が設立され、1783年にはクリミア・ハン国を併合して、完全に黒海北岸を領土化した。ここにおいて、黒海はオスマンの内海から、ロシアとオスマンの海となった。

さらに露土戦争 (1787年-1791年)ヤッシー条約によってロシア領は黒海北西岸のエディサン地方に拡大し、この地にロシアは1794年にはオデッサ港を開港した。これにより外界への出口を獲得したロシアは、以後オスマン帝国を圧迫しながら徐々に南へと領土を広げていく。この政策は南下政策と呼ばれ、ロシア外交の根幹となるが、ロシアの強大化を恐れるヨーロッパ列強諸国はこれを認めず、オスマン帝国を支援する側に回った。この黒海の制海権争いも含むロシア・トルコおよび列強諸国間の対立は、東方問題と呼ばれて19世紀ヨーロッパ外交の焦点の一つとなる。

ロシアは露土戦争 (1828年-1829年)でも勝利を収め、1833年ウンキャル・スケレッシ条約によって完全に黒海の制海権を握った。しかし、イギリスなどがこれに反発して1853年にはクリミア戦争が勃発し、ロシアは破れ、1856年のパリ条約によって黒海は非武装化され、黒海艦隊も解体されて[8]この海域は中立化されることとなった。

しかし1871年、ロシアはパリ条約を改定させ、再び黒海艦隊を再建した。露土戦争 (1877年-1878年)の講和条約である1878年サン・ステファノ条約によって、ロシアは黒海西岸を中心にさらに勢力圏を南下させたが、同年のベルリン条約によって一定の歯止めがかけられた。また、サン・ステファノ条約によってブルガリアがほぼ独立し、またベルリン条約によってルーマニアが北ドブロジャを得て黒海への出口を確保した。


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