黒柳徹子
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単行本・文庫本を合わせて累計800万部を発行し[8]、世界35カ国で翻訳された。記録的なベストセラーとなり、「トットちゃんブーム」が起こった。また、黒柳は同作で、「第5回路傍の石文学賞」やポーランドの文学賞「ヤヌシュ・コルチャック賞」などを受賞している。

1981年から1985年までの5年間と1987年には、高額納税者番付の俳優・タレント部門で、森繁久彌大橋巨泉石原裕次郎三船敏郎三田佳子ら時代を代表するタレントを抑えて1位となった。1985年には、タレントとしては珍しく政府の税制調査会に参考人として招かれ、その場で「現在の私の収入の90%が税金。1時間の番組の何分か話したらあとは全部税金。原稿用紙400字詰めの2行書いたら、あとの18行は全部税金。勤労意欲を失うことが無きにしもあらず。最高税率を10%下げて欲しい。」と発言した。この発言が影響を及ぼしたかは不明だが、2年後には最高税率が60%まで下げられている。

1983年には、「新鮮な発想と円熟した話術で視聴者の共感を呼び、新しい健全な娯楽番組の定着・充実に寄与した」として、第35回NHK放送文化賞を受賞した[40]

1984年より、国際連合傘下のユニセフ(国際連合児童基金)親善大使を務めており、現在でも精力的に活動している(詳細は後述)。

1986年にはTBSテレビのクイズ番組世界・ふしぎ発見!』が放送を開始し、こちらも長寿番組になっており、黒柳は初回からレギュラー解答者として、毎回出演している。また、初回から毎回出演している人物は黒柳の他には総合司会の草野仁のみである[注 2]

1991年には「第7回東京都文化賞」および「外務大臣賞」を受賞している。
2000年代後半以降の活躍2020年1月15日

2010年に「放送ウーマン賞」の日本女性放送者懇談会40周年特別賞を受賞[39]。同年には、平成27年度文化功労者に選ばれた[41]。2015年5月27日には『徹子の部屋』が放送回数通算10000回を達成した。

2017年にはこれまでの活躍が評価されて名誉都民に選ばれる[42]。2020年には第29回石井十次賞を受賞[43]。以後もテレビ番組『徹子の部屋』と『世界・ふしぎ発見!』にレギュラー出演するほか、声優や女優、司会者、国際連合児童基金の親善大使として幅広く活躍している。また、ほぼ毎年舞台に立ち続けている。

Instagramも積極的に活用しており、近況などを伝えている。2021年7月にはYouTubeに公式チャンネルを開設[44]
社会貢献活動・福祉活動
ユニセフ親善大使2006年8月25日、外務省にて外務大臣麻生太郎(左)にコートジボワールの情勢を報告2013年9月12日、外務省にて外務大臣岸田文雄(左)に南スーダンの情勢を報告

芸能活動以外にも、国際連合傘下のUNICEF(ユニセフ、国際連合児童基金)親善大使としての活動が特に知られる。親善大使には1984年アジアの人物として初めて就任し、その後最古参のメンバーになった。当時のユニセフ事務局長ジェームス・グラントは、任命理由として黒柳の子どもへの愛と、障害を持つ人々や環境への黒柳の広範囲な活動と実績を挙げている[45]。以後、アフリカアジアなどの途上国を毎年欠かさず訪問し、現在までの訪問国数は30ヶ国に上る[46]。親善大使としての活動に対して、ユニセフからは、1985年に「第1回ユニセフこども生存賞」、2000年に「第1回ユニセフ子どものためのリーダシップ賞」を受賞。また日本政府からは、2003年に勲三等瑞宝章(現:瑞宝中綬章)を授与された。

黒柳がユニセフ親善大使に就任することになったきっかけは、当時ユニセフ事務局長だったジェームス・グラントが『窓ぎわのトットちゃん』を緒方貞子の紹介により読んだことである[47]

これらの視察の模様は日本国内や視察した国々の中で広く報道され、2002年に黒柳がアフガニスタンソマリアを訪問した際には、同行した日本のテレビ番組制作チームによって、視察の様子を撮影した90分間のドキュメンタリー番組が2本放送された。また、テレビ朝日『ニュースステーション』でも視察報告を行い、広範囲に亘る黒柳の現地視察は、他の報道番組や『徹子の部屋』、多数の新聞や雑誌の記事の中で伝えられている。黒柳の活動が広く報道されたことでアフガニスタンやソマリアにおける子どもと母親を支援するための資金提供を呼びかけることにもつながった[45]

黒柳は個人で募金活動を行っており、黒柳のもとへ寄せられた募金総額は2014年現在50億円以上に上る[48]。黒柳のもとへ寄せられた募金は事務費用などには一切使われず、100%がユニセフの本部へ送られ、子どものために使われている。

1996年5月28日にユニセフ活動のためテレビ朝日取材班とともに訪れたボスニア・ヘルツェゴビナで、クロアチア人警察に軍事基地を撮影したという嫌疑で3時間ほど拘束されている。真相がわかるまで日本ではスパイ容疑で逮捕、身柄拘束と誤報された[49]

1997年にユニセフの政府拠出金が削られそうになった時、黒柳は親善大使として自ら新聞に投書して政府拠出金の維持を訴えかけた。黒柳の投書を読んで当時外務大臣だった小渕恵三が黒柳に直接電話し、「今日予算のことなんで、ユニセフのために頑張るからね」と話した。そして、黒柳の尽力もあってその年はユニセフの政府拠出金は削られなかった[50]

2001年、黒柳が「朝日社会福祉賞」を受賞した。受賞理由は「ユニセフ親善大使として活躍し、『トット基金』を通じてろう者の社会参加も支援した功績」である[51]

旱魃・内戦・殺戮・地雷がある状況で、「なぜそこまでして行くのか? 怖いとかためらうとかの気持ちはないのか」との質問に、「ユニセフ親善大使として少しでも皆様に知ってもらう。(だから)あまり大変と思わない。何かあったら、その時はその時でね。戦争を通してきた人間って、そういう所が有りますよ。だって、いつ死ぬか分からなかったんですから、小学生の時から。飢えた事も親のいない寂しさも(疎開経験で)分かり合えますから」といい、やってあげる支援ではなく、トモエ学園の「皆、一緒に行う」の思想がユニセフ活動のもとになっていると答えていた[19]

ちなみに、ユニセフ親善大使としての黒柳への年間報酬は、1アメリカドルである[8]
過去に大使として訪問した地域@media(min-width:720px){.mw-parser-output .columns-start{width:100%}.mw-parser-output .columns-start div.column{float:left}.mw-parser-output .columns-2 div.column{width:50%;min-width:30em}.mw-parser-output .columns-3 div.column{width:33.3%;min-width:20em}.mw-parser-output .columns-4 div.column{width:25%;min-width:20em}.mw-parser-output .columns-5 div.column{width:20%;min-width:20em}}

1984年 -
タンザニア

1985年 - ニジェール

1986年 - インド

1987年 - モザンビーク

1988年 - ベトナムカンボジア

1989年 - アンゴラ

1990年 - バングラデシュ

1991年 - イラク

1992年 - エチオピア

1993年 - スーダン

1994年 - ルワンダ、旧ザイール

1995年 - ハイチ

1996年 - ボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチア

1997年 - モーリタニア

1998年 - ウガンダ

1999年 - コソボアルバニアマケドニア


2000年 - リベリア

2001年 - アフガニスタン

2002年 - アフガニスタン

2003年 - ソマリア

2004年 - シエラレオネ

2005年 - コンゴ民主共和国

2006年 - インドネシア

2007年 - アンゴラ

2008年 - カンボジア

2009年 - ネパール

2011年 - ハイチ、東北地方(日本)


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