黒柳徹子
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舞台出身の俳優との間に演技力の差を感じていたことから、慕っていた杉村春子文学座への入団を相談し[14][20][23]、1961年に開設された文学座附属演劇研究所に3期生[24] として入所。NHKを退社し演技を学ぶ[14]江守徹高橋悦史らが同期[14]

文学座の分裂後、1970年に出演した東宝ミュージカルスカーレット』(帝国劇場)でブロードウェイのスタッフとともに仕事をして親しくなり、作曲家のハロルド・ロームの夫人・フローレンスから「面倒見てあげるから、ぜひニューヨークにいらっしゃい!」と招きを受けて、もっと勉強したいとニューヨークへの留学を決意する[20][25]

1971年9月から1年間ニューヨークへ留学し、セントラル・パーク西隣のワンルームに生活する。ローム夫妻がニューヨークでの身元引受人となり、フローレンス夫人を「ニューヨークのお母さん」と呼んだ。『スカーレット』演出家のジョー・レイトンの夫人で元女優のイブリン・ラッセルの紹介により、スタニスラフスキー・システムに基づいてプロの俳優に指導する「メアリーターサイ演劇学校」にて演技を学び、開校以来初の東洋人の生徒となる。また、同じ建物の中にある「ルイジ・ダンススクール」でモダン・ダンスを学ぶ。アフターファイブには振り袖を着てカクテルやディナーなど社交の場に足を運び、「着物と洋服、どちらにも似合う髪型を開発したい」との思いから、ニューヨークで知り合って友人となったアメリカで活躍中のヘアメイクアーティストの須賀勇介のアイディアを交えつつ、後にトレードマークとなる「タマネギヘア」を考案する[20][25][26][27]。「あなたのように1人でぷらぷらしている人の目で世の中を見て、そのままの感性で好きに話してほしい」とのオファーを受けて日本初の女性司会者によるワイドショーで『徹子の部屋』の前身番組となる『13時ショー』(NETテレビ)の司会就任が決まり、放送開始前月の1972年9月に帰国する[25][26]

1976年のテレビ朝日の『徹子の部屋』の放送開始を機に、「役を演じながら司会もやると混乱を招く」「悪女役をしていたら、悪い人が話を聞いているみたいに思われる」との考えから、本人役などで出演した一部作品を除いてテレビでの女優活動を控えるようになる[28]

一方で、舞台女優として1989年より「海外コメディ・シリーズ」の上演を開始。劇作家・演出家の飯沢匡の発案により黒柳の主演で毎年秋に海外の喜劇を紹介する企画で、1994年に飯沢が死去した後は主に高橋昌也が演出を手掛けて、2016年秋で30回目を数えた[28]。1997年には『幸せの背くらべ(英語版)』および『マスタークラス(英語版)』での演技により第38回毎日芸術賞ならびに第4回読売演劇大賞の大賞・最優秀女優賞を受賞、2013年には「永年の翻訳劇に対する情熱と功績に対して」の受賞理由により第38回菊田一夫演劇賞特別賞を受賞している[29]。2017年秋の『想い出のカルテット?もう一度唄わせて?』では、同年8月末の右大腿骨骨折と手術を経て、設定を変更して車椅子で舞台を務めた[30][31]。ライフワークとして30年間で32作品を上演し、2018年秋に上演の『ライオンのあとで』で幕を下ろした[32][33][34]。継続を希望するファンの声を受けて、2019年10月には朗読劇『ラヴ・レターズ』の舞台に上る[35][36]
マルチタレントとして2012年7月5日、外務省にて外務大臣玄葉光一郎(左)を表敬訪問2013年9月12日、外務省にて外務大臣岸田文雄(左)を表敬訪問

1976年にはテレビ朝日で自身の冠番組『徹子の部屋』が開始。長寿番組となっている。2011年4月27日放送分(35周年記念SP第2弾『出張!徹子の部屋』)を以って放送8961回を迎え、「同一の司会者による番組の最多放送回数記録」としてギネス世界記録に認定された[37]。2015年5月27日には放送回数が通算10000回となり、上記の「同一の司会者による番組の最多放送回数記録」を自ら更新し、再びギネス世界記録を受賞した[38]。1995年には「橋田賞」を、1997年には「第23回放送文化基金賞」を受賞している。2006年には黒柳と『徹子の部屋』が第54回菊池寛賞を受賞した。受賞理由は「30年間休むことなく良質な対談番組を送り続けている努力」に対してである。

『徹子の部屋』開始と同じ1976年には、「主婦の選んだテレビパーソナリティーNO.1」に初めて選出され、1989年まで14年連続で選出された。

1978年からは、最高視聴率41.9%を記録する大ヒットになったTBSテレビ音楽番組ザ・ベストテン』が放送を開始し、黒柳は初回から1989年の最終回まで司会を務めた(なお、初期からコンビを組んでいた久米宏は1985年で降板した)。1978年度の日本女性放送者懇談会賞を受賞する[39]

1970年代には『音楽の広場』『おしゃべりオーケストラ』などのNHKクラシック音楽番組の司会も大きな比重を占めた。ユーモラスな早口は同種番組としては異色だったが、芥川也寸志、尾高忠明らソフトな語り口の専門家たちとのコンビネーションも好評で、賑々しいが訊き上手でもあるというお茶の間のイメージを定着させている。

1981年、自身の著書『窓ぎわのトットちゃん』が出版された。単行本・文庫本を合わせて累計800万部を発行し[8]、世界35カ国で翻訳された。記録的なベストセラーとなり、「トットちゃんブーム」が起こった。また、黒柳は同作で、「第5回路傍の石文学賞」やポーランドの文学賞「ヤヌシュ・コルチャック賞」などを受賞している。

1981年から1985年までの5年間と1987年には、高額納税者番付の俳優・タレント部門で、森繁久彌大橋巨泉石原裕次郎三船敏郎三田佳子ら時代を代表するタレントを抑えて1位となった。1985年には、タレントとしては珍しく政府の税制調査会に参考人として招かれ、その場で「現在の私の収入の90%が税金。1時間の番組の何分か話したらあとは全部税金。原稿用紙400字詰めの2行書いたら、あとの18行は全部税金。勤労意欲を失うことが無きにしもあらず。最高税率を10%下げて欲しい。」と発言した。この発言が影響を及ぼしたかは不明だが、2年後には最高税率が60%まで下げられている。

1983年には、「新鮮な発想と円熟した話術で視聴者の共感を呼び、新しい健全な娯楽番組の定着・充実に寄与した」として、第35回NHK放送文化賞を受賞した[40]

1984年より、国際連合傘下のユニセフ(国際連合児童基金)親善大使を務めており、現在でも精力的に活動している(詳細は後述)。

1986年にはTBSテレビのクイズ番組世界・ふしぎ発見!』が放送を開始し、こちらも長寿番組になっており、黒柳は初回からレギュラー解答者として、毎回出演している。また、初回から毎回出演している人物は黒柳の他には総合司会の草野仁のみである[注 2]

1991年には「第7回東京都文化賞」および「外務大臣賞」を受賞している。
2000年代後半以降の活躍2020年1月15日


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