黎元洪
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表舞台に舞い戻った段祺瑞の北洋軍閥はあっけなく張勲の軍を打ち破り、7月12日には北京を制圧、段祺瑞は7月14日に悠々と北京入京を果たしている。この日のうちに黎元洪は日本公使館を出て大総統を辞職し、政治の一線から退いた。

大総統を辞職した黎元洪は天津に移る。ここで彼は悠々自適に隠居しながら、民間事業への投資を行って財を成している。
中華民国大総統 (第2期)

1922年6月11日から1923年6月13日まで、黎元洪は再び大総統を務める。だが既に前回とは大きく情勢が異なっていた。まず1919年に直隷派の馮国璋が病死し、直隷派はさらに保定派(曹?派)と洛陽派(呉佩孚派)に分かれた。さらに1920年7月の直皖戦争で安徽派の段祺瑞は失脚し、1922年4月の奉直戦争で奉天派が敗北すると、政権は直隷派が担うことになった。だが、直隷派単独で政権を維持するには支持層が少なすぎる[注釈 5]。そこで直隷派は再び「誰もが反対しない大総統」として黎元洪を擁立する事を思いついた。前回の経験で形式的な大総統職に就くことに難渋している上に隠居生活を楽しんでいた黎元洪は就任に難色を示したが、結局は直隷派に廃督裁兵[注釈 6]を認めさせる事を条件として1922年6月11日に改めて大総統に就任した。再度自ら独自の政策を展開できると思ったのも束の間、またもや黎元洪の政権は各派に振り回されることになる。

黎元洪が目指したのは「平和的な統一による中央集権国家への移行」であり、そのために「廃督裁兵」や「国内各派の取り込み」を行おうとした。しかし旧知の孫文の取り込みを当てにした「平和的な統一」は、孫文の逮捕状を取り下げ閣僚として国民党の要員の派遣を依頼したものの、当の孫文が黎元洪の前回の失脚の後に北京政府と袂を分かち「広州国民政府」を樹立しており「広州政府が中国唯一の政府であり、黎元洪は新しく来た偽総統に過ぎない。もし列強が彼を承認するのであれば、それは中国に対する内政干渉だ」と内外に対して宣言が発表されたことから失敗。「廃督裁兵」も、軍事力を失う各派の抵抗やそれらに対抗するだけの軍事力の無さは事前に予想していたものの、就任を後援した直隷派の軍事力を後ろ盾にできるだろうと目論んでいた。だが、実際には直隷派も北洋軍閥の一派であり、当初はこれを受諾した直隷派も実行段階になると支援は消極的になった。このため、「廃督裁兵」に成功した省は江西省1省のみという結果に終わった。またこの時期、何とか名目だけでもと7人の文官を省長として任命するが、各地で地元勢の反対に遭ったために実際に着任したのは僅か2人だけだった。

更に就任直後から「黎元洪の大総統就任は直隷派の手によるものであり、民主政治と言う割には大総統選任のプロセスが中華民国約法に則っていない」という議論が沸いた。これに対して黎元洪側は「前回大総統職を離れたのは辞任ではなく(張勲による)外的圧力で職を離れただけである。従って今回大総統に『復帰』したのでその任期は1年3ヶ月残っている」と反駁したものの、説得力に欠け黎元洪の求心力は低下する。

こうしては就任からわずか1ヶ月の間に軍事力の中央集権・文官の派遣といった黎元洪の中央集権化策はことごとく失敗し、求心力を失った大総統は益々直隷派の傀儡になっていく。また、傀儡となった黎元洪の更なる悩みの種として、直隷派の首魁である曹?と呉佩孚が仲違いを始めた。曹?・呉佩孚共に黎元洪には直接意見を言ってくるので、黎元洪は「2人の傀儡」として双方の顔色をうかがいながら迷走しなければならなくなった。

黎元洪の迷走はそのまま国政の迷走であり、その有様は黎元洪在任中のわずか1年の間に6回も内閣が修正された事でも見て取れる。迷走を続けた黎元洪は、翌1923年6月に半ば直隷派に放逐される形で辞職した。黎元洪は直隷派に包囲された自宅にこもったり、北京にいられなくなって天津に脱出する際も大総統の印璽を持ち出して天津に仮政府を設置しようとするなど、ギリギリまで抵抗を試みたが、結局印璽は天津に脱出する途上で直隷派に奪われてしまった。黎元洪は天津のイギリス租界に逃げ延びた。
余生

大総統の職を追われた黎元洪ではあるが自ら公式に「辞職した」とは認めず、天津・上海で大総統復帰のための工作を行った。だが、後1923年9月に黎元洪を上海に招いた孫文ら国民党を含め、直隷派に対抗した組織は概ね黎元洪に同情を表したが、「黎元洪を大総統に」支持するものではなかった。黎元洪は猶も諦めずに各方面に働きかけたが、自分の子飼いが続々と離れていくのを見て、とうとう政治の一線から離れる事を決意した。1923年11月、黎元洪は「別府温泉で湯治する」と言って船に乗って上海を離れ、約半年後の1924年5月11日に天津に戻ってきた。傀儡とはいえ政治の第一線で翻弄され続けたからかその顔は、未だに巨万の富を持つ大資産家であるとは思えないほど苦渋に満ちていたという。

その後、黎元洪はもう政治向きの事には口を出さず、実業家として企業に投資したり、天津社交界に顔を出したり、近代教育のために学校に出資したりしていた。この年(1924年)の10月に第二次奉直戦争が勃発して直隷派政権が瓦解したが、黎元洪はもう政界に進出する気はなくなっていた。

晩年の黎元洪は糖尿病と高血圧に悩み、1928年5月25日に昏倒する。その契機は彼が出資する主要資産である中興炭鉱を、国民党の?介石が接収したという知らせを聞いたためという。6月3日午後10時に他界。家族に宛てた遺書の中では、子供達が政治に関与する事をきつく戒めていたという。

国民党は1935年11月に国葬を行い、黎元洪の遺体は武昌の卓刀泉に埋葬された。この霊園は後の文化大革命の際に破壊されるが、1981年武漢市政府によって修復された。
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 「妻のベッドの下」とする説もある。
^ 孫文はこの時期亡命先のアメリカにいた。
^ 政事堂国務卿:後に改組して国務総理。内閣の首班で首相に相当する。
^ この時、張勲自身は天津に残っていた。
^ この当時の中国で直隷派に同調しない層としては、中央に大総統の徐世昌、南部・西部は国民党及び地方軍閥が、東北地方には奉天系の張作霖らがいた。
^ 廃督裁兵:これは督軍を廃止して軍権を中央に集約し、軍閥による地方自治から文官による自治に切り替える事で、軍閥の弱体化による国内の安定を企図したものであった。

出典^ 狭間(1999)p.46

関連文献

李書源『黎元洪:柔暗総統-民初五大総統列伝』 吉林文史出版社、1995、
ISBN 7805289573

劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年

狭間直樹「第1部 戦争と革命の中国」『世界の歴史27 自立へ向かうアジア』中央公論新社、1999年3月。.mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}ISBN 4-12-403427-X。 

  中華民国北京政府

先代
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1911年10月 - 1913年12月次代
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1913年6月 - 9月次代
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2代
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馮国璋

先代
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4代
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高凌?(摂政)










中華民国の国家元首
臨時政府

臨時大総統(1912年 - 1913年)

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袁世凱 1912 - 1913



北京政府

大総統(1913年 - 1915年, 1916年 - 1924年)

袁世凱 1913 - 1915, 1916

黎元洪 1916 - 1917

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徐世昌 1918 - 1922

黎元洪 1922 - 1923


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