黄金の床几戦争
時1900年3月 - 9月
場所アシャンティ王国、現在のガーナ共和国アシャンティ地方
結果
イギリス帝国の勝利
アシャンティ王国の植民地化
黄金の床几の奪取に失敗
衝突した勢力
イギリス帝国 アシャンティ王国
指揮官
フレデリック・ミッチェル・ホジソン
黄金の床几戦争(おうごんのしょうぎせんそう、英語: The War of the Golden Stool)は、「ヤァ・アサンテワァ戦争」、「三度目のアシャンティ遠征」、「アシャンティの蜂起」、あるいはこれらから派生した紛争を含めて、英領ゴールド・コースト(西アフリカ地域)のイギリス帝国政府とアシャンティ王国の間に勃発した中の最後の戦いとして知られるものである。
この戦争の結果、アシャンティ王国そのものはイギリスの植民地アシャンティ保護国(英語版)となるが、アシャンティの独立は事実上維持され、イギリスの強力な植民地支配をほとんど受けることなく自主的な秩序構築がなされた。その後、英領ゴールドコースト植民地の独立時にアシャンティ地方も併合され、1957年に新たな独立国家となったガーナ共和国の領土として組み込まれることとなった。 当時アシャンティ王国の自治州であった西アフリカ地域には地域の自治権を持つイギリス人とそれに従属する部族が混在しており、緊張した状態となっていた。 アシャンティがイギリスの統治に対して反抗を始めた際、イギリスは騒擾鎮圧を試みた。さらに、ゴールドコースト総督フレデリック・ミッチェル・ホジソン 1900年3月25日、フレデリック・ミッチェル・ホジソンは少数のイギリス兵と地元の徴収兵を率いてクマシに到着した。ホジソンは強大なイギリス帝国の代表として伝統的な儀礼に沿い、ホジソンの妻に向けて「女王陛下万歳」を歌う子供たちに迎えられ町へと入城した[2]。そして集まったアシャンティの諸王と族長たちに向けて演説を行った。そこでホジソンは黄金の床几をヴィクトリア女王が受け取るべきだと述べたという[3]。彼は黄金の床几の重大性を理解しておらず、この発言が引き起こすであろう激震を明らかに認識していなかった。1901年にホジソンがイギリスに対して行った報告によると、ホジソンはアシャンティ地域を統治しているのが大英帝国であることを示すためこのような発言を行ったという[3]。しかし、聴衆にとっては、アシャンティ王国の体現であり、過去・現在・未来に生きる全てのアシャンティ王国民の象徴である床几に、外国人であるホジソンが触れ、汚そうとしていることはとても容認できるものではなかった。王国内のエジスを支配していた王母
背景
黄金の床几
物資供給率の低下と伝染病が守備隊に被害をもたらしつつあった6月、700人から成る別の救援隊が拠点に到着した。負傷者と病人のために食糧を残すために、比較的健康な人員は、ホジソンとその妻、数百人のハウサ族と共に、アシャンティ軍の包囲網から脱出し、救援隊と合流して逃走を開始した[2]。イギリスの直轄植民地への帰還を阻止するため12,000人ものアシャンティ軍の主力が招集されていたため、逃走者は、アャシャンティ軍の攻撃を避けながら逃走しなければならなかったのである。 ホジソンがコーストに到着した頃、様々なイギリス軍・憲兵隊から引き抜かれた1,000人の援軍が西アフリカに集結し、ジェームス・ウィルコックス
救援軍