紹熙2年11月26日(1191年12月14日)、光宗が官員たちと宮外の祭壇で祭祀を執り行っていた時、皇后李氏は黄貴妃を殺害し、「急死」と報告された。光宗はショックのあまり大声で泣き叫び続け、儀式が出来なくなった。夜間まで祭祀は続いたが、突然の激しい雷雨に灯火がことごとく吹き消され、祭壇の者たちは騒ぎ立った。光宗はその後、ショックで数日間意識不明になった。太上皇の孝宗は激怒して皇后をとがめ、「皇帝が崩御したらお前の一族も処刑だ」といった。また、宰相らにもこれを言い聞かせた。皇后は恨みを抱き、蘇生した光宗に「あなたはご自分の過飲から病になられましたが、太上皇は私を一族とともに処刑なさろうとされました。極めて不公正な冤罪です。今も、太上皇は宰相たちと結託しようとしています」と讒言した。光宗は皇后の言に惑わされ、父子の間はさらに険悪になった。
脚注^ 太上皇(孝宗に譲位後の高宗)の宮名。
伝記資料
『宋史』
『宋会要輯稿』
『建炎以来朝野雑記』