黄泉
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『古事記』には黄泉比良坂(ヨモツヒラサカ)が2カ所に登場し、一つは上述のイザナギとイザナミのシーン、もう一つがオオクニヌシが妻のスセリビメとともにスサノオから与えられた試練を克服して根の国から脱出するシーンである[5]。「黄泉比良坂」も参照
位置関係

『古事記』の黄泉国については、本居宣長の『古事記伝』に始まる地下世界であるとする説と、松村武雄神野志隆光など水平方向にある別の世界とみる説に大きく分けられるが、これらとはまったく違うイメージとする説もある[2]

久野昭は、記紀神話においては、現世と黄泉の国の地理的な上下の位置関係については明言されていないとしている[6]

この曖昧さは、記紀神話が形作られた古代日本の葬送によるとされる。すなわち、当時の日本における遺体処理の方法としては、土中に遺体を埋める土葬と、集落の外の特定の場所に遺体を安置して、朽ちて自然に戻るに任せる風葬があった。神話に書かれる黄泉の国におけるイザナミの姿の描写は、風葬された死体が腐敗する最中の姿を現していると思われる(土葬の死体も似た様子になると思われるが、誰かが偶然目にする機会は土中に埋まっている土葬の死体より地上に放置された風葬の死体の方が断然多い)。そのため、この時代の人々の間では、「腐敗した死体が置かれている場所」としての黄泉の国は、現世との物理的な上下関係を意識することはなかったと思われるとする[7]
日本書紀

『日本書紀』では『古事記』のような形式で直接「黄泉の国」の神話を持ち込むことはせず、神代紀上巻第五段本文には「黄泉の国」に関する言及はない[3]。また、『日本書紀』では本文間で「一書云」の形で異伝が語られる[8]。『日本書紀』の神代紀上巻第五段では、一書第二でイザナミが火の神を生んで亡くなるとするが「黄泉の国」に関する言及はない[3]。一書第九・十でも「黄泉の国」としては語らず、「殯斂の処(もがりのところ)」や「伊弉冉尊の所在(ま)す処」として記述される[3]

一書第六では『古事記』とほぼ同様のイザナギとイザナミの応酬が描かれ、イザナミの埋葬のモチーフに関する記述はないものの[3]、「泉津平坂(ヨモツヒラサカ)」の記述がある[9]

また、一書第十には「泉平坂」(よもつひらさか)で言い争っていたイザナミとイザナギのもとに菊理姫が現れる記述がある(菊理姫は何かを語ったとなっているが何を語ったかに関する記述はない)[8]

イザナミの葬地が三重県熊野市有馬の花の窟に比定されることから[10]、熊野と「黄泉の国」が関連づけられることがある[11]
出雲国風土記

出雲国風土記』出雲郡条の宇賀郷の項には黄泉の坂・黄泉の穴と呼ばれる洞窟の記載があり、「人不得 不知深浅也 夢至此磯窟之辺者必死」と記載されている。即(すなは)ち、北の海浜(うみべた)に磯(いそ)あり。脳(なづき)の磯と名づく。高さ一丈(つゑ)ばかりなり。上に松生(お)ひ、芸(しげ)りて磯に至る。里人の朝夕(あしたゆふべ)に往来(ゆきかよ)へるが如く、又、木の枝は人の攀(よ)ぢ引けるが如し。磯より西の方(かた)に窟戸(いはやど)あり。高さと広さと各(おのもおのも)六尺(さか)ばかりなり。窟(いはや)の内に穴あり。人、入(い)ることを得ず。深き浅きを知らざるなり。夢に此の磯の窟の辺(ほとり)に至れば必ず死ぬ。故(かれ)、俗人(くにひと)、古(いにしへ)より今に至るまで、黄泉(よみ)の坂・黄泉(よみ)の穴と号(なづ)く。

この洞窟は島根半島出雲市猪目町にある「猪目洞窟」に比定されるのが通説である[10]。猪目洞窟は昭和23年(1948年)に発掘され、弥生時代から古墳時代にかけての人骨や副葬品が発見された。

なお、黄泉国とは出雲地方のことであるとする説[12]がある。
『聖書』中の訳語としての「黄泉」詳細は「地獄 (キリスト教)」を参照

新約聖書』中のギリシャ語ハデス」、『旧約聖書』中のヘブライ語シェオル」(en:Sheol)を漢文訳の『聖書』では「黄泉」と訳しており、日本語訳聖書においては、口語訳聖書では「黄泉」、新共同訳聖書では「陰府(よみ)」、新改訳聖書では「ハデス」と訳されている。類語であるギリシャ語の「ゲヘンナ」は地獄と訳されることが多く、訳し分けがなされている。他方、日本正教会訳聖書では、ゲヘンナを地獄(ルビ:ゲエンナ)、ハデスを地獄(ルビ:ぢごく)と、ルビを使って訳し分けている。

キリスト教内でも地獄に対する捉え方が教派・神学傾向などによって異なる。地獄と訳されることの多いゲヘンナと、黄泉と訳されることの多いハデスの間には厳然とした区別があるとする見解と[13]、区別は見出すもののそれほど大きな違いとは捉えない見解[14]など、両概念について様々な捉え方がある。

厳然とした区別があるとする見解の一例に拠れば、ゲヘンナは最後の審判の後に神を信じない者が罰せられる場所、ハデスは死から最後の審判復活までの期間だけ死者を受け入れる中立的な場所であるとする。この見解によれば、ハデスは時間的に限定されたものであり、この世の終わりにおける人々の復活の際にはハデスは終焉する。他方、別の捉え方もあり、ハデスは不信仰な者の魂だけが行く場所であり、正しい者の魂は「永遠の住まい」にあってキリストと一つにされるとする[13]

上述した見解例ほどには大きな違いを見出さない見解からは、ゲエンナ(ゲヘンナ)、アド(ハデース)のいずれも、聖書中にある「外の幽暗」(マタイ22:13)、「火の炉」(マタイ13:50)といった名称の数々と同様に、罪から抜け出さずにこの世を去った霊魂にとって、罪に定められ神の怒りに服する場所である事を表示するものであるとされる[14]
出典・脚注^ 酒井陽「明治期聖書訳語「よみ」に関する一考察」『岐阜聖徳学園大学国語国文学』第26巻、岐阜聖徳学園大学、2007年3月15日、60-47頁。 
^ a b c d e f g h i j k l m n o 梶川信行、鈴木雅裕「<研究へのいざない>教室で読む古事記神話(六)-追往黄泉国から見畏而逃還まで-」『語文』第167号、2020年、36-。 
^ a b c d e f g h i j 酒井陽「黄泉の国と死者の国 -記紀神話の「黄泉の国」は死者の赴く世界か-」『千葉大学日本文化論叢』第2巻、千葉大学文学部日本文化学会、2001年3月20日、1-12頁。 
^ 西條勉「黄泉/ヨモ(ヨミ)|漢語に隠される和語の世界―」 (『東アジアの古代文化』91号、1997年)
^ 森田喜久男. “「ヨモツヒラサカ」を越えた神々”. 松江市. 2024年4月21日閲覧。
^ 久野, p. 17.
^ 久野, p. 18.
^ a b 山田純「 ⇒書紀によると世界は-天孫降臨と歴史叙述-」『文学研究論集(文学・史学・地理学)』第21巻、明治大学大学院、2004年9月30日、127-141頁。 
^ 山田 純「気絶之際の「泉津平坂」」『日本文学』第63巻第10号、2020年、62-66頁。 
^ a b 小山一成「富士の人穴草子試論」『立正大学人文科学研究所年報』第20号、1982年、138頁。


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