黄河
[Wikipedia|▼Menu]
しかし一方で、海河・淮河ともに黄河の河道変遷(後述)によって黄河本流となったことがあり、また黄河によって運ばれてきた黄土が華北平原そのものを形成し、平原全域を覆っていることから考えても、華北平原全域が黄河の影響下にある地域であるといえる。また、山東省の黄河以北は位山灌区(中国語版)と呼ばれ、天井川となっている黄河から灌漑用水を引水して農業が営まれている。この位山灌区は面積的には青銅峡・河套両灌区とほぼ同じ面積であるが、気候的に冬小麦と裏作の二毛作が可能であり、黄河の水供給が逼迫する中でもその特性から灌漑区域が拡大している。黄河は山東省西部において大運河と接続するが、この付近にある東平湖はかつて黄河下流では非常に珍しい、黄河に流れ込む水系をなしていた。しかし第二次世界大戦後の河道安定に伴い黄河の河道に土砂が堆積したことで高低差がなくなり、現在では黄河氾濫時の遊水池としての役割を果たすのみとなっている。大運河自体は黄河よりも低く、大運河に沿って走る南水北調導水路の東線も黄河河道をトンネルでくぐって北へと向かう。

大運河に接続したのち、黄河は山東省の省都済南市の北側を通り、渤海湾に注ぐ。上流から流れてくる膨大な量の土砂の堆積により、山東省河口付近には広大なデルタ地帯を形成している。黄河から海へ流入する土砂の量は、年に16億トン[8] から17億トン以上にものぼる[9]。渤海は黄海に属するが、黄海の名は黄河から流れ込む黄土などによって海面が黄色く濁って見えることからつけられた名である。黄河デルタ(中国語版)の湿地群は2013年にラムサール条約登録地となった[10]
水文学的特徴

黄河は上流部で黄土のただなかを流れるが、この黄土はシルトであり、粒子が細かいため浸食されやすい。そのため、黄河には膨大な土砂が流れ込み、黄河という名称のもととなった。

黄河の水文学的特徴として、水が少なく砂が多い、水と砂の分布が不均等、下流域は天井川(川床が岸辺より高くなっている)で洪水災害が頻繁に起こるという点がある[11]。土砂量に関しては年間16億トンにのぼり、世界一の土砂含有量を持つ。この土砂量は第2位のガンジス川(年14.5億トン)と肩を並べ、第3位のアマゾン川が年間9億トンに過ぎないことからしても、ほかの河川からは冠絶している。しかも、黄河の年間水量は468億m3に過ぎず、これはガンジス川(3,710億m3)の8分の1であり、土砂含有率においては世界でもっとも高い大河川である[8]

このため、黄河においては「水一石泥六斗」[12]と呼ばれるほど多くの土砂が含まれており、流量の少なさと土砂そのものの多さによって下流部に堆積し、河道変遷の要因となった。この土砂は流域に建設されたダム群にも堆積し、特に黄河本流に初めて建設された大型ダムである三門峡ダムにおいては、この問題は深刻なものとなった。1960年の完成後急速にダム湖に土砂が沈殿し、1年ほどで潼関にいたる広大な地域に土砂が堆積して、関中盆地の主要部が洪水の危機にさらされたため、2度の改修によって土砂排出機能の改善を余儀なくされたのである。こうした堆積土砂は黄河の全ダムに共通しており、洪水抑制機能がかなり減衰した状態となっている。小浪底ダムにおいては、堆積土砂を押し流すための放水がたびたび行われている[13]。黄河のこの濁りは恒常的なものであり、あてのないことをただひたすら待ち続ける「百年河清を俟つ」という故事成語があるほどである。562年には黄河と済水がともに澄んだため、当時の北斉王朝が年号を「河清」へと変更した[14]

黄河の土砂蓄積は現在も進行中であり、水量低下によって土砂の運搬能力が非常に落ちたためにむしろ加速する傾向がある。黄河下流域においては、大規模な堤防の堤内において水路周辺に再び土砂が蓄積して天井川化し、天井川の中に天井川が存在するといった状態にまでなっている[15]。こうした土砂の流出および蓄積を防ぐためにさまざまな対策が取られている。土砂流出のもっとも大きい黄土高原においては、耕作地に植林して森林を造成し土砂流出を抑制する、いわゆる退耕還林政策が行われている。また、上記の小浪底ダムの大放水はダムの堆積土砂のほか、三門峡ダムや万家寨ダムとも連携して放水することによって下流の河道に堆積した土砂を一気に押し流すことも意図している。
流路変遷と治水各時期における下流部の流路「黄河改道」を参照

黄河下流域は膨大な土砂の堆積によって天井川となっているため、古来よりたびたび氾濫し、大きく流路を変えてきた。それらの元流路は黄河故道と呼ばれている。黄河の治水は歴代王朝の重大な関心事のひとつであった。古代には現代の河道に比べてかなり西寄りを流れており、渤海北部の天津付近に河口があったが、紀元前602年に記録されている最初の河道変遷が起こり、黄河は旧河道と現代の河道のほぼ中間を流れるようになった。春秋戦国時代は沿岸諸国が堤防を建設したが、この堤防は黄河本流から十分な距離をもって建設されており、氾濫しても堤防内にてある程度吸収することが可能であったため、黄河はやや治まっていた。前漢の時代に入ると、紀元前132年濮陽において黄河が決壊した。この決壊はそれまで知られていた黄河以北の河北平野における氾濫ではなく、黄河の南側で決壊して淮河へと流れ込むものであり、当時の経済中心のひとつであった黄河・淮河間の平野(淮北平野)に甚大な被害をもたらした。この決壊は23年後の紀元前109年にふさがれたものの、以後黄河は氾濫を繰り返すようになった。

これを防ぐため、紀元前7年に賈譲(中国語版)が「治河策」を著した。これは黄河の治水策として、上策を河道変更、中策を分流、下策を現河道の堤防のかさ上げとしたもので、この案は賈譲三策として知られ[16]、以後の黄河治水案の基礎となるものだった。しかし、前漢王朝はすでに衰退しており、この案を実行に移す国力はすでに失われていた。

王朝時代の11年にはついに決壊して河道がさらに東へと転じ、現在の河道よりやや北をほぼ現河道と並行するように流れるようになった。この氾濫・決壊は黄河下流域に甚大な被害を与え続けたが、69年から70年にかけて後漢王景による治水工事が行われ、黄河は安定を取り戻した。この王景の治水策は2点からなり、ひとつは華北平野で当時最も低く、なおかつ渤海へ最短距離で到達する河道を選択することで勾配をつけ土砂を押し流しやすくすることと、河北平野への分流を設け黄河の勢いをそぐことを根幹としていた。この案は60年ほど前に提案された賈譲の上策および中策とほぼ一致するものだった。この治水の効果は劇的なもので、これ以降黄河はの時代にいたるまで800年以上ほぼ安定したままで推移し、河道変遷にいたっては北宋時代の1034年にいたるまで起きなかった。この河道安定の理由としては、王景の治水計画が非常に優れたものであったことと、もっとも土砂流出量の多い中流域の黄土高原が、中国王朝の統治能力の減退によって北方の遊牧民がこの地域に進出し牧草地化したことで土砂流出がある程度抑制されたことがあげられる。このため、再び黄土高原に農民が進出し耕地化が著しくなった唐代以降、黄河の洪水は徐々に増加していった。

北宋期に入ると、黄河は再び暴れ川となり、1034年の決壊からはほぼ10年ごとに河道が変転する事態となった。この河道変遷は、漢の時代までの変遷が徐々に東へ向かう形だったのとは反対に、河道は徐々に西へと向かい、古代の河道のように北へと流れる傾向を示した。しかし、朝廷内では黄河の河道を東に向ける派と北に向ける派が対立し、治水は遅々として進まなかった。

黄河の河道はこのときまではすべて渤海に注いでいたが、南宋初期にこれを大きく変える出来事が起きた。1128年、南宋の将軍である杜充が軍の南下を防ぐため、黄河の南岸の堤防を決壊させたのである。これにより黄河は大きく南遷して南の淮河に合流し、黄海へと流れ込むようになった[17]。この黄河の南流は1855年に再び黄河が北流し、現在の流路を流れるようになるまで700年近く続いた。当初は旧河道を通って渤海へと流れ込む水流も残っていたが、1150年に途絶し、黄河はすべて南流することとなった。この南流期の黄河河道は一本化されておらず、何本かに分かれて淮河へと流入していたが、淮河の河道は黄河の全水量を受けられるほど広くなかったため、今度は淮河流域で洪水が頻発するようになった。また、淮河から溢れた水は富陵湖や白水塘といったそれまでに存在した小さな湖を飲み込み、中国4位の広さを持つ淡水湖である洪沢湖を形成した。さらに洪沢湖から溢れた水は高郵湖、邵伯湖といった湖を作り、南の長江に流れ込むようになってしまった。やがて明朝期後半には、黄河の流れを一本化(束流)して、その水量で土砂を押し流す(攻砂)という、いわゆる「束流」案が潘季馴によって提唱され、主流となった。この案の円滑な運用には、流路に堆積する膨大な量の土砂を取り除くための定期的な浚渫が不可避であったが、清王朝後期にはこの河川管理が崩れ、黄河は再び水害を頻発させ始めた。

1855年、黄河は大洪水を起こし、南流をやめてほぼ700年ぶりに北へと向かい、渤海へと注ぎ込むようになった。このときの流路が、ほぼ現在の黄河の河道である。黄河の現在の流路にはもともと済水(大清河)と呼ばれる大河が流れており、済南市の市名はこの済水の南に位置していたことからきたものだが、この流路変更によって済水の河道のほとんどは黄河本流となってしまった。このときは黄河の河道を元に戻してほしい新流路である山東省グループと、黄河の河道変更を恒常化させたい淮河流域グループとの対立によって河道の改修と固定化が遅れ、結局1875年に現流路に流路が固定されることとなった。また、日中戦争中の1938年には日本軍の侵攻を阻止しようとした中国国民党によって堤防が爆破され、流路が変わった(黄河決壊事件)。1947年に堤防の修復が完了し、河口が現在の位置になった。

戦後、三門峡ダムなど大規模なダムが建設され、大水害は減少した。しかし、1970年代以降、工・農業用水の需要増大に伴って、下流部で流量不足になり、河口付近では長期にわたって断流するなどの問題が起きている(1999年以降、断流は発生していない)[† 1][18]2001年には三門峡ダムの下流に小浪底ダムが建設され、黄河の水位調節を行うようになって断流は発生しなくなった[19]。とはいえ、黄河の根本的な水量不足は解消したわけではなく、これを解決するために南水北調計画が開始され、西線工区では水量の豊富な長江上流地域から黄河上流へと水を流し、黄河水量の増加によって甘粛や寧夏、内モンゴル、陝西省などの水不足を解消する計画が立てられたが、この西線工区は3,000メートル級の険しい山岳地帯に位置し、非常な困難が予想されるため、ほかの2工区と違いまったく着工がなされず、計画段階にとどまっている。この計画の東線では大運河に沿ったルートで華北へ、中央線では漢水に作られたダムから河北省の西部へと水が送られ、黄河水系の水の負担を減らすことが期待されているものの、この両ルートではそれぞれ黄河をトンネルによってくぐって水を輸送するものとされ、黄河そのものにはこの両ルートからの水は流れ込まない。また、源流域のチベット高原では過放牧や道路建設などによって重要な水源となる湿原の消失が続いており、長江や黄河といった大河川の水量への影響が懸念されている[20]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:59 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef