黄河決壊事件
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各国メディアの報道

アメリカにおける報道は被害の規模を伝えるのみにとどまり、『ブルックリン・デーリー・イーグル』紙が6月16日に「日本軍が必死の救助活動をしている」と報じた程度だった[24]。日本の『同盟旬報』は「アメリカでは災害が人災であることを伝えていない」と報じている[24]

英国では事件が日本軍の砲撃で引き起こされたとする中国側の説明に無理があることを示しながら双方の主張を伝えた[21][22][19]ロンドン・タイムズは事件をスペインと戦ったオランダ人のように中国人は堤防を破壊して日本軍の進撃を止めたと報じ、中国のプロパガンダは額面通りに受け取られるべきではないと断った上でそれによると日本人の被害が5千人とし、日本側はこれを否定しながらも日本軍の動きが制限されたことを認めたことを伝えた上で、この事件が中国の長い歴史の中においてさえ比類のない大災害の恐れがあるとし、国際連盟から送られた専門家の支援による治水公衆衛生向上のための巨大な建設作業を無に帰したことを指摘した[19]

フランスでは6月9日上海発アヴアス電は漢口からの報告として中国軍は黄河の堤防破壊による洪水で日本軍の進撃を阻止し、日本兵は5千溺死という類の報道により中国側の成功として紹介されたため10日以降、左翼系の新聞を中心にパリの各紙が取り上げた[20]

駐仏中国大使館は6月15日夕方、黄河決壊に関するコミュニケを各通信社・新聞社に送った。その中で15日漢口来電として事件を起したのは日本であるとしていたが16日の各紙朝刊は全くこのことを掲載しなかった[20]6月17日にはフランス急進社会党機関紙「共和報」は黄河決壊事件は中国軍による自作自演であり[18]、主筆ピエール・ドミニクの論説では「中国軍の黄河の堤防破壊は下級軍人の個別の行動ではなく、有識者が熟慮の末に、重大な責任を自ら負って準備決行したものである」としている[24]

スペインのディアリオ・バスコ紙は6月19日の社説で中国軍は黄河の堤防を破壊してノアの大洪水に勝る大水害を起こそうとしている。中国の中部地域における70万平方キロメートルの地域が水没の危機に晒され、7千万の住民が大洪水の犠牲となろうとしている。しかし英、米、仏いずれからもこの世界に前例なき人類一大殺害に対し一言たりとも抗議する声を聴かない。

と伝えた[25]
論争

洪水は何百万もの家を水没させたが、予め知らされていなかった大多数の住民には逃げる時間が無かった[26]。ただ堤防の破壊地点付近では国民革命軍が知らせたため種子・家具什器類は高い場所に運ばれ、同時に見舞金も渡されていたことが住民から報告されている[27]

被害の大きさは国民革命軍にとっても想定外であったようだが、そもそも洪水を引き起こすために花園口で堤防を破壊することが必要だったかどうかは、その人的被害の大きさと共に今も議論されている。

1940年までは洪水が日本軍に「機動性の難題」をもたらし、戦局が膠着したため部分的に成功という説もある[28]
影響

日本軍は武漢三鎮への進撃を一時停止せざるを得なかったが、進路変更により漢口作戦の発令から2ヵ月後の10月26日には武漢三鎮を占領した[29]

黄河決壊による被害は「堅壁清野」という焦土作戦とともに、中国民衆をさらに苦しめることになった。農作物にも大きな被害を与え、さらに各勢力による食料調達(徴発)の為、農民は厳しい搾取を受けることとなった。1938年の堤防決壊による直接の農業生産への打撃による穀物不足は1940年10月の収穫まで続いた[30]。もともと渤海に流れ込んでいた黄河が流れを変え東南方に氾濫し、いわゆる新黄河となって揚子江流域鎮江附近から黄海に注ぐようになったことで、それまで黄河によって潤されていた北支の田畑は夏になると乾燥して水飢饉となり、反対に中支の新黄河流域地方は毎年洪水に苦しめられることになった[31]。黄河の流れは南側へ変わり黄海に注ぐようになったが、堤防が1946年から1947年にかけて再建されたことで1938年以前の流域に戻っている。1942年に河南省で旱による干ばつが起こった際に飢饉が発生し、道端には凍死者と餓死者があふれ、飢えから屍肉が食べられたと伝えられる[29]
河南旱魃と民衆の離反詳細は「河南飢饉(英語版)」を参照

オドリック・ウーの河南省に対する研究によれば、堤防決壊の後、旱魃による1942年末の飢饉・1943年夏のイナゴの被害と続き、その時期に河南の西部、南部、東部の順に伝染病の被害があり、これらの時期に死者300万人、土地を捨てた者300万人、救援を待つ飢えた人々は1,500万人を数えたと指摘している[32]。日本は軍の展開のためだけでなく日本本国への現地からの食料を移入を必要としていたものの、飢饉の数年間、日本側は各地の倉庫から食糧を放出し他省からも雑穀を移入し、飢えた人々にも食べさせられる食糧供給を図る事が課題となったとされ、これは国民党、共産党ともに同じ状況であったとしている[32]。その一方で、ウーは飢饉の年月においても日本軍やその傀儡による過酷な食糧収奪の手法や苛烈な徴発が行われていた事実を多数報告し、それが農民を屡々共産党側に追いやったとしている[33]。これについて、徴発に関しては国民党と共産党を含めたどの当事者も似たようなもので特に敵対側の管轄地域で多かったが、日本軍は農民から徴発する為により組織だった暴力と拷問を用いていた他、国民党と共産党は外国の侵略勢力と戦っているとして自らの行動を道義的に正当化できた事、日本が都市という消費地域を支配するのが一般的であった事に対し国民党と共産党は農村の生産地域を支配した事が国民党と共産党に有利に作用したとしている[34]。環境破壊としては、前記ウーの研究によれば、磨頭区で小麦に代えて日本側による米の作付け強制等が行われ水の流れが変わり小麦生産が激減した事、日本軍による掃討・飛行場建設による畑等の破壊、1942年に日本軍の黄河大橋修理が洪水をもたらした事(日本軍はその洪水で失った分の食糧貯蔵を農民からあらたに徴発している)が挙げられている[33]

作家である劉震雲の小説『温故一九四二』によれば、1942年から1943年にかけて河南省では水旱蝗湯(すいかんこうとう)と呼ばれる水害、旱魃イナゴの発生(蝗害)、および湯恩伯による重税により、300万人あまりが餓死した[35]という。この劉の小説を中国語で報告文学と呼ばれるルポルタージュ乃至ノンフィクションと捉える向きも日本にはある[36]が、中国では調査体小説という言葉であくまで小説とされている[37](そのため、小説中の「・・・に調査に行った」、「・・・という資料があった」という部分まで含めて、それ自体ではどこまでがフィクションで、どこまでが史実か、分からないことに注意する必要がある。特に、この小説が初めて出版された1993年は、台湾では李登輝総統の国民党政権が従来からの反共主義は変えることなく民主化に舵をきり始めていた一方、中国では前年1992年に天皇・皇后の訪中が行われるなど日本への反日感情が薄らいでおり、また、当時GDPが未だ日本の1/10しかなかった中国としては、従来の改革開放路線の延長線上にある社会主義市場経済政策をとる方針を明確していく中で、台湾の国民党や国民党軍を批判し日本を自国側により引き付けようとしたがっていたという時代背景がある。なお、本来の中国語に存在する言葉は「日記体小説」という言葉で、日記の体裁を取った小説という意味であり、魯迅の「狂人日記」等がこれにあたる。)。

劉の小説によれば、この状態が続けば河南省は全滅していたが[38]、1943年の冬から1944年の春までの間に日本人が河南の被災地区に入り、軍糧を放出して多くの人々の命を救った[39]という。この結果、河南省の人々は日本軍を支持し、日本軍のために道案内、日本軍側前線に対する後方支援、担架の担ぎ手を引き受けるのみならず、軍隊に入り日本軍による中国軍の武装解除を助けるなどした者の数は数え切れないほどだったとされている[40]。1944年春、日本軍は河南省の掃討を決定した(一号作戦[40]。そのための兵力は約6万人であった[40]。この時、河南戦区の?鼎文司令官は河南省の主席とともに農民から彼らの生産手段である耕牛さえ徴発して運送手段に充てることを強行し始めた。これは農民に耐え難いことであった[41]。農民は猟銃、青龍刀、鉄の鍬で自らを武装すると兵士の武器を取り上げはじめ、最後には中隊ごと次々と軍隊の武装を解除させるまでに発展した[42]。推定では、河南の戦闘において数週間の内に約5万人の中国兵士が自らの同胞に武装解除させられた[42]。すべての農村において武装暴動が起きていた[42]。日本軍に敗れた中国兵がいたるところで民衆によって襲撃、惨殺、あるいは掠奪され、武器は勿論、衣服までも剥ぎ取られた[31]。3週間以内で日本軍はすべての目標を占領し、南方への鉄道も日本軍の手に落ちた[42]


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