麻雀
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詳細は「トランプの歴史」を参照

明の成化年間の陸容 (1466-1494)『菽園雑記』の記すところによると[8]、当時の昆山で一種のカードゲームが流行しており、カードの総数は38枚であって、一銭から九銭・一百から九百・一万貫から九万貫・二十万貫から九十万貫・百万貫・千万貫・万万貫からなっていた。「糸巻き」の様に見える図柄は、「銭の穴に糸を通した束」で、「サイコロの目」の様に見える図は「銭を正面から見た図」である。一万貫以上のカードには『水滸伝』中の二十人の絵が描かれており万万貫は宋江・千万貫は武松等となっていた(ただし「混江竜李進」と「混江竜李海」が別人として存在するなど、現行の水滸伝とは名前が多少異なっている)。当時の人はこの種のカードを「葉子」と呼び、葉子を使ったカードゲーム自身のことは「葉子戯」と呼んでいた。今では水滸牌と呼ぶことが多い。

語源については、上記の「馬弔(マーディアオ)」が日本で転訛して「麻雀(マージャン)」となったとされる[9]

1949年中華人民共和国政府によって一旦、全てのギャンブルと共に禁止された[10]。しかし、文化大革命終結後の改革開放に伴ってギャンブルでない麻雀は許されるようになり、1985年には禁止令が解除された[11]
アメリカ合衆国における受容と発展学校で麻雀を学ぶアメリカ合衆国の学生詳細は「アメリカ麻雀」を参照

1895年、アメリカ合衆国の人類学者スチュワート・キューリンは麻雀に言及した記事を書いた。これは中国語以外の言語で書かれた最初の麻雀についての記述であった。1910年までにはフランス語日本語の文献も出揃った。1920年アバークロンビー・アンド・フィッチ社は初めて合衆国に麻雀を輸入し販売を開始した[12]。麻雀セットはニューヨーク市を中心にヒット商品となり、合計で12000セットを売り上げた[12]。また、同時期にジョセフ・パーク・バブコックが世界初の麻雀本となる"Rules of Mah-Jongg"を出版した。

1920年代の合衆国で麻雀は全ての人種の間で流行しアメリカ式のルールが生まれ、多くの「マージャン・ナイト」が開かれた。人々は中国風の装飾が施された部屋に着飾って集まり、これに親しんだ[13]エディ・カンターのSince Ma is Playing Mah Jongなど、マージャンを主題にした流行歌も幾つか生まれた[14]

1937年には初のルールブックとなる"Maajh: The American Version of the Ancient Chinese Game."が出版されるとともに、全米麻雀リーグ (National Mah Jongg League, NMJL) が発足した。しかし、合衆国における麻雀の流行は一過性のものに終わった。

1980年代にコンピュータ用ゲーム『上海』が登場して以来、「mahjong」「mahjongg」「mah-jang」という表現が再び一般的に使われるようになるが、それらは『上海』タイプのパズルゲームを指しており、中には麻雀牌以外の絵柄を使っているものも存在する ⇒[6][7]
日本における受容と発展
初期

記録に残るうえで実際の麻雀牌が日本に伝わったのは1909(明治42)年に清からこれを持ち帰った名川彦作によるものであり、大正中期以降はルール面において独自の変化を遂げつつ各地に広まっていったともいうが、一般に認知されるようになったのは関東大震災の後である。神楽坂カフェー・プランタン文藝春秋菊池寛らが麻雀に熱中し、次第に雑誌等にも取り上げられるようになった。文藝春秋社では、みずから麻雀牌を販売していた。なお、日本人で初めて麻雀に言及したのは大正・昭和戦前期の中国文学・中国文化研究者の井上紅梅であり、『支那風俗』(1921年、全3巻)の中巻では麻雀の起源やルールについて記述している。異説として夏目漱石が挙げられることもあるが、これは中村徳三郎が『麻雀競技法』(1924年)において、『満韓ところどころ』(1909年)内の大連での見聞である「四人で博奕を打っていた。(略)厚みも大きさも将棋の飛車角ぐらいに当る札を五六十枚ほど四人で分けて、それをいろいろに並べかえて勝負を決していた。」という記述を引き合いにしたものである。ただし、中国の麻雀牌にしては厚みや大きさがないことや枚数が少なすぎることから別のゲームであった可能性も指摘されている[15]

1929年(昭和4年)3月21日・31日、東京の国民新聞社講堂で初の全国麻雀選手権大会が開かれ、約600人が参加した[16]。1930年(昭和5年)5月時点における東京市内外における麻雀店の数は937店であった。7月10日、警視庁は麻雀店の新設を当分許可しない方針とした[17]

1933年(昭和8年)、不良華族事件の捜査の過程で、著名な文士や出版関係者らの常習賭博が明らかになり逮捕者が相次いだ[18][19]。この逮捕を受けて、文士だけではないとの声が高まり、翌1934年(昭和9年)にも医師や画家、音楽家、実業家、代議士など著名人の検挙が相次いだ。この頃、日本麻雀連盟の関係者が行っていた賭けのレートは1000点10円ないし15円[20]であった[21]

1937年(昭和12年)日中戦争開戦前の頃には東京都内に約2000軒の麻雀クラブがあったが、戦時色が濃くなるにつれて麻雀も下火とならざるを得なくなり、1942年(昭和17年)の時点では230軒余と激減した。業者の団体は警視庁の指導に基づき同年9月1日より「麻雀」を「卓技」と名称を改め、東京卓技商業報国会を結成。健全娯楽化を目指した[22]
戦後

終戦後再び麻雀は流行し始め、戦前から行われていたアルシーアル麻雀に「途中リーチ」(現在の立直)・ドラ・場ゾロなどを加えた新ルールが取り入れられるようになり、アレンジを加えられた日本式の麻雀(リーチ麻雀)が主流を占めるようになった。


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