鹿鳴館_(戯曲)
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また、三島が自身の演出で上演したいと考えていたヴィクトル・ユーゴーの『ルクレツィア・ボルジア(フランス語版)』(リュクレース・ボルジア)の人物設定なども、藍本になっているのではないかという村松剛や今村忠純の指摘もある[9][10][11][注 1]。ちなみに、三島自身もボルジャ家について、〈私は生得ボルジャ家の代々が好きである。チエザレ・ボルジャルクレツィア・ボルジャも好きである〉と語っている[12]

『鹿鳴館』の「大時代的」な風味や、台詞まわしには、三島が少年期から親しんでいた歌舞伎の影響もあり[1]、その「台詞で構築された、台詞を聞かせる、幾層にも張り巡らされた愛と陰謀のスリリングな悲劇」は、「伝統的でありながら、斬新」でもあり、劇場で芝居の楽しみを味わえる作品だと松本徹は解説し[1]、有元伸子も「緊密に構成され修辞に満ちた絢爛たるセリフによる緊張感と、シアトリカルで楽しめる大芝居の二つの要素を兼ね合わせている」作品だとしている[2]

三島は『鹿鳴館』を〈俳優芸術のための作品〉だとし[3]、作中の登場人物たちに、人が人を信頼すること、骨肉の情愛や憎悪、人が人を動かす政治についての怜悧な洞察のある長い台詞を吐露させているが、そういったところも聴きどころの一つで、俳優の力量が試される(ゆえに主演はベテラン俳優たちが演じることが多い)。また、ストーリー展開やドラマチックな要素で娯楽性が高い作品だが、「練られた台詞」に緊張感のあるため、「役者の技術だけでなく、身体性や経験、持ち前の雰囲気やパワーまでも総動員しなければ、通俗劇に堕する危険」があると佐藤秀明は指摘しており[13]、役者にとっては難しい芝居である。

執筆当時、文学座に籍を置いていた三島は、看板女優の杉村春子を念頭において『鹿鳴館』を書いたが[14]、1963年(昭和38年)に、戯曲『喜びの琴』の上演中止問題(喜びの琴事件)から、三島と文学座が絶縁となって以降は、文学座による上演は止められ、その後は劇団新派の代表作となり、初代・水谷八重子の八重子十種の一つとして、新派劇の主要な演目となった[2]。初代・水谷八重子没後の公演では、二代目・水谷八重子市川團十郎の主演で上演された。近年は、劇団四季のレパートリー演目としても公演されている(演出・浅利慶太。主演・日下武史ほか)。

なお、1956年(昭和31年)の初演と1958年(昭和33年)の東京公演では、三島自身も3幕目で鹿鳴館を模様替えする大工・植木職人に扮し、今で言うカメオ出演をしている(三島自身は座興と述べている)。

テレビドラマ化は、1959年(昭和34年)に初演舞台と同じキャストでフジテレビで放映。1961年(昭和36年)は主演に佐分利信を迎え、それ以外は初演舞台とほぼ同じキャストでTBSテレビで放映。1970年(昭和45年)は岩下志麻芦田伸介主演でNHKで放映。近年は2008年(平成20年)正月に田村正和黒木瞳主演でテレビ朝日で放映された。映画化は1986年(昭和61年)に東宝によって菅原文太浅丘ルリ子主演、市川崑監督でなされた。数億円を投じて東宝の大ステージいっぱいに再現された豪華な鹿鳴館セットが話題を呼んだ。
歴史背景・モデル

明治維新武士は廃されたが、本来の華族旧大名家や旧公家から成る諸侯華族)ではない将軍大名の一族や、功労者(主に下級武士出身)にも国家への勲功により、1883年(明治16年)に爵位が与えられ、新華族となった。また、旧大名は維新後数年で、公卿は十数年で政治の実務からは外されており、1884年(明治17年)の内閣制度発足後に閣僚となったのは、功労者出身の新華族とこれに続く官僚軍人のみであった。


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