鹿島神宮
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祭神「鹿島要石真図」江戸時代鯰絵。上が要石を祀る鹿島神宮、下が剣をもち大鯰を抑える武甕槌神

祭神は次の1柱[6]

武甕槌大神(たけみかつちのおおかみ[6]/たけみかづちのおおかみ[7])『古事記』では「建御雷神」、『日本書紀』では「武甕槌神」と表記される[8]。別名を「建布都神(たけふつのかみ)」や「豊布都神(とよふつのかみ)」[8]

祭神について

上記のように、鹿島神宮の主祭神はタケミカヅチ(武甕槌/建御雷)であるとされる。タケミカヅチの出自について、『古事記』[原 6]では、伊邪那岐命(伊弉諾尊)が火之迦具土神(軻遇突智)の首を切り落とし、剣についた血が岩に飛び散って生まれた3神のうちの1神とする[8](日本書紀[原 7]ではここでタケミカヅチ祖のミカハヤヒが生まれたとする)。また、天孫降臨に先立つ葦原中国平定においては、アメノトリフネ(天鳥船神:古事記)または経津主神(日本書紀)とともに活躍したという[9]。その後、神武東征に際してタケミカヅチは伊波礼毘古(神武天皇)に神剣(布都御魂)を授けた[7]。ただし『古事記』・『日本書紀』には鹿島神宮に関する言及はないため、タケミカヅチと鹿島との関係は明らかでない[10]

一方、『常陸国風土記』[原 1]では鹿島神宮の祭神を「香島の天の大神(かしまのあめのおおかみ)」と記し、この神は天孫の統治以前に天から下ったとし、記紀の説話に似た伝承を記す[11]。しかしながら、風土記にもこの神がタケミカヅチであるとの言及はない[12]。高天の原より降(くだ)り来(きた)りし大神、名(みな)を香島天の大神と称(まを)す。天にてはすなはち日の香島の宮と号(なづ)け、地(つち)にてはすなはち豊香島の宮と名づく。 ? 『常陸国風土記』香島郡条より抜粋(原文漢文)[13]

神宮の祭神がタケミカヅチであると記した文献の初見は、『古語拾遺[原 8]807年成立)における「武甕槌神云々、今常陸国鹿島神是也」という記述である[14]。ただし、『延喜式』(927年成立)の「春日祭祝詞」[原 9]においても「鹿島坐健御賀豆智命」と見えるが、この「春日祭祝詞」は春日大社の創建といわれる神護景雲2年(768年[注 1]までさかのぼるという説がある[15]。以上に基づき、8世紀からの蝦夷平定が進むにつれて地方神であった「香島神」に中央神話の軍神であるタケミカヅチの神格が加えられたとする説があるほか[16]、中央の国譲り神話自体も常陸に下った「香島神」が中臣氏によって割り込まれて作られたという説がある[17]

神宮の祭神は、タケミカヅチが国土平定に活躍したという記紀の説話、武具を献じたという風土記の説話から、武神・軍神の性格を持つと見なされている[18]。特に別称「タケフツ」や「トヨフツ」に関して、「フツ」という呼称は神剣のフツノミタマ(布都御魂/?霊)の名に見えるように「刀剣の鋭い様」を表す言葉とされることから、刀剣を象徴する神とする説もある[19]。鹿島神宮が軍神であるという認識を表すものとしては、『梁塵秘抄』(平安時代末期)の「関より東の軍神、鹿島・香取諏訪の宮」[原 10]という歌が知られる[14]。一方、船を納めさせたという風土記の記述から航海神としての一面や[11]、祭祀集団の卜氏が井を掘ったという風土記の記述から農耕神としての一面の指摘もある[15]。以上を俯瞰して、軍神・航海神・農耕神といった複合的な性格を持っていたとする説もある[15]。一方でタケミカヅチと中臣氏の遠祖である天児屋命を繋ぐ系図が存在し、中臣氏歴代にも津速産霊命、市千魂命、伊香津臣命雷大臣命など「雷」に関係した神名・人名が見られ、中臣氏と同祖と見られる紀国造にも雷神祭祀(鳴雷神社)や天雷命など雷に関わる神名が見られることから、雷神としてのタケミカヅチを中臣氏本来の神と見る説もある[20]
特徴香取神宮千葉県香取市下総国一宮。鹿島神宮とは深い関係にあり、古来並び称される。

鹿島神宮は、下総国一宮香取神宮千葉県香取市、北緯35度53分10.03秒 東経140度31分43.27秒 / 北緯35.8861194度 東経140.5286861度 / 35.8861194; 140.5286861 (下総国一宮:香取神宮))と古来深い関係にあり、「鹿島・香取」と並び称される一対の存在にある[21]

鹿島・香取の両神宮とも、古くより朝廷からの崇敬の深い神社である。その神威は、両神宮が軍神として信仰されたことが背景にある[22]。古代の関東東部には、現在の霞ヶ浦(西浦・北浦)・印旛沼手賀沼を含む一帯に香取海という内海が広がっており、両神宮はその入り口を扼する地勢学的重要地に鎮座する。この香取海はヤマト政権による蝦夷進出の輸送基地として機能したと見られており[22]、両神宮はその拠点とされ、両神宮の分霊は朝廷の威を示す神として東北沿岸部の各地で祀られた(後述)。鹿島神宮の社殿が北を向くことも、蝦夷を意識しての配置といわれる[23]

朝廷からの重要視を示すものとしては、次に示すような事例が挙げられる。

神郡鹿島・香取両神宮ではそれぞれ常陸国鹿島郡下総国香取郡が神郡、すなわち郡全体を神領とすると定められていた[24]令集解[原 11]延喜式[原 12]に記載)。神郡を有した神社の例は少なく、いずれも軍事上・交通上の重要地であったとされる[24]

鹿島香取使(かしまかとりづかい)両神宮には、毎年朝廷から勅使として鹿島使(かしまづかい)と香取使(かとりづかい)、または略して鹿島香取使の派遣があった[24]伊勢近畿を除く地方の神社において、定期的な勅使派遣は両神宮のほかは宇佐神宮(6年に1度)にしかなく、毎年の派遣があった鹿島・香取両神宮は極めて異例であった[24]


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