鹿島神宮
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その神威は中世武家の世に移って以後も続き、歴代の武家政権からは武神として崇敬された。現在も武道では篤く信仰される神社である。

文化財のうちでは、「?霊剣(ふつのみたまのつるぎ)」と称される長大な直刀国宝に指定されている。また境内が国の史跡に、本殿拝殿楼門など社殿7棟が国の重要文化財に指定されているほか、多くの文化財を現在に伝えている。鹿神使とすることでも知られる。
社名

神宮は常陸国鹿島郡の地に鎮座するが、その地名「カシマ」は、『常陸国風土記[原 1]では「香島」と記載される[2]。風土記の中で、「香島郡」の名称は「香島の天の大神」(鹿島神宮を指す)に基づくと説明されている[3]。「カシマ」を「鹿島」と記した初見は養老7年(723年[原 2]であり[4]、8世紀初頭には「香島」から「鹿島」に改称されたと見られている[2]。この変化の理由は史書からは明らかでないが、神宮側では神使の鹿に由来すると説明する[5]。この「カシマ」の由来には諸説がある。主な説は次の通り。

「神の住所」すなわち「カスミ」とする説[3]

建借間命(たけかしまのみこと)から「カシマ」を取ったとする説[3]建借間命(建借馬命)は、『先代旧事本紀』国造本紀[原 3]に初代仲国造(那珂国造)として、また『常陸国風土記』[原 4]に記述が見える人物。

「船を止める杭を打つ場所」を意味する「カシシマ」とする説[3]肥前国風土記[原 5]に「杵島(きしま)」の由来として見える記述に基づくもの[3]

なお、神宮では現在社名に「島」の字を用いているが、自治体の茨城県鹿嶋市は佐賀県鹿島市との区別のため「嶋」の字が使用される。
祭神「鹿島要石真図」江戸時代鯰絵。上が要石を祀る鹿島神宮、下が剣をもち大鯰を抑える武甕槌神

祭神は次の1柱[6]

武甕槌大神(たけみかつちのおおかみ[6]/たけみかづちのおおかみ[7])『古事記』では「建御雷神」、『日本書紀』では「武甕槌神」と表記される[8]。別名を「建布都神(たけふつのかみ)」や「豊布都神(とよふつのかみ)」[8]

祭神について

上記のように、鹿島神宮の主祭神はタケミカヅチ(武甕槌/建御雷)であるとされる。タケミカヅチの出自について、『古事記』[原 6]では、伊邪那岐命(伊弉諾尊)が火之迦具土神(軻遇突智)の首を切り落とし、剣についた血が岩に飛び散って生まれた3神のうちの1神とする[8](日本書紀[原 7]ではここでタケミカヅチ祖のミカハヤヒが生まれたとする)。また、天孫降臨に先立つ葦原中国平定においては、アメノトリフネ(天鳥船神:古事記)または経津主神(日本書紀)とともに活躍したという[9]。その後、神武東征に際してタケミカヅチは伊波礼毘古(神武天皇)に神剣(布都御魂)を授けた[7]。ただし『古事記』・『日本書紀』には鹿島神宮に関する言及はないため、タケミカヅチと鹿島との関係は明らかでない[10]

一方、『常陸国風土記』[原 1]では鹿島神宮の祭神を「香島の天の大神(かしまのあめのおおかみ)」と記し、この神は天孫の統治以前に天から下ったとし、記紀の説話に似た伝承を記す[11]。しかしながら、風土記にもこの神がタケミカヅチであるとの言及はない[12]。高天の原より降(くだ)り来(きた)りし大神、名(みな)を香島天の大神と称(まを)す。天にてはすなはち日の香島の宮と号(なづ)け、地(つち)にてはすなはち豊香島の宮と名づく。 ? 『常陸国風土記』香島郡条より抜粋(原文漢文)[13]

神宮の祭神がタケミカヅチであると記した文献の初見は、『古語拾遺[原 8]807年成立)における「武甕槌神云々、今常陸国鹿島神是也」という記述である[14]。ただし、『延喜式』(927年成立)の「春日祭祝詞」[原 9]においても「鹿島坐健御賀豆智命」と見えるが、この「春日祭祝詞」は春日大社の創建といわれる神護景雲2年(768年[注 1]までさかのぼるという説がある[15]。以上に基づき、8世紀からの蝦夷平定が進むにつれて地方神であった「香島神」に中央神話の軍神であるタケミカヅチの神格が加えられたとする説があるほか[16]、中央の国譲り神話自体も常陸に下った「香島神」が中臣氏によって割り込まれて作られたという説がある[17]

神宮の祭神は、タケミカヅチが国土平定に活躍したという記紀の説話、武具を献じたという風土記の説話から、武神・軍神の性格を持つと見なされている[18]。特に別称「タケフツ」や「トヨフツ」に関して、「フツ」という呼称は神剣のフツノミタマ(布都御魂/?霊)の名に見えるように「刀剣の鋭い様」を表す言葉とされることから、刀剣を象徴する神とする説もある[19]。鹿島神宮が軍神であるという認識を表すものとしては、『梁塵秘抄』(平安時代末期)の「関より東の軍神、鹿島・香取諏訪の宮」[原 10]という歌が知られる[14]。一方、船を納めさせたという風土記の記述から航海神としての一面や[11]、祭祀集団の卜氏が井を掘ったという風土記の記述から農耕神としての一面の指摘もある[15]。以上を俯瞰して、軍神・航海神・農耕神といった複合的な性格を持っていたとする説もある[15]。一方でタケミカヅチと中臣氏の遠祖である天児屋命を繋ぐ系図が存在し、中臣氏歴代にも津速産霊命、市千魂命、伊香津臣命雷大臣命など「雷」に関係した神名・人名が見られ、中臣氏と同祖と見られる紀国造にも雷神祭祀(鳴雷神社)や天雷命など雷に関わる神名が見られることから、雷神としてのタケミカヅチを中臣氏本来の神と見る説もある[20]


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