鹿地亘
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鹿地亘は郭沫若の協力もあり、1938年12月には反戦同盟を組織[3]。1939年12月には、中国の抗日戦争は「日本人民の自由解放」と一致するとの声明を発表し、1940年5月には延安支部が建設され、八路軍や新四軍地区の日本人捕虜兵士による反戦運動にも影響を及ぼした[3]青山和夫重慶政府国際宣伝処の対日工作顧問で(本名は黒田善治)、コミンテルンの指令で対日工作に従事した[4][5][6]
帰国

第二次世界大戦の終結後に日本に帰国し、民主主義文学運動に参加する。1947年第1回参議院議員通常選挙に無所属で全国区から立候補するが落選した。

1951年11月25日、肺結核療養中の神奈川県藤沢市内においてアメリカ軍諜報機関(キャノン機関)に拉致され、アメリカのスパイになるよう強要される鹿地事件が起こる。監禁開始から約1年後の1952年12月に解放され、12月7日に帰宅した。解放直後、国会に証人喚問され、鹿地事件について証言している。当時日本は既に主権を回復していて日本の主権侵害が行われたのではないかとの批判の声も強かったが、主権回復したとはいえ、当時の米国の日本政府への影響力は絶大で、政府側は行政協定をタテに取り、あるいは行政協定や国際法で説明がつかなければ国際礼譲(相手国への礼儀といった意味か?)なるものを持ち出す等[7]、事態追究に消極的であった。当時の国家警察長官の対応も米側の主張に沿っていて[8]、このような長官の態度を鹿地は厳しく批判している[9]。また、この間、むしろ国家警察側が積極的に鹿地を陥れようとしているのではないかとも見えるような事態も多々惹き起こしている(参照:鹿地事件#スパイ問題)。

米ソの二重スパイを務めていた無線機器会社の社員・三橋正雄が1952年12月鹿地事件発覚の直後に自首し(三橋事件)、三橋は鹿地もスパイの共犯だと自供したが、鹿地はこれを否定した。当初から警察関係者の一部からは、三橋は米軍の命で自首し動いているとの情報も流れている[10]。鹿地は結核で肋骨を切除する等、国会等の証人喚問も負担となる状態であったが、この間、本人が被害者のはずの拉致・監禁問題で病弱な妻も含めてたびたび国会に参考人ではなく証人として喚問され、ついで三橋事件が問題にされてスパイ問題でやはり妻も含めて国会に証人喚問され、その後の三橋裁判でも本人が証人として出頭させられる破目に陥っている。さらには、あらためて1953年8月鹿地は衆議院法務委員会に出頭させられ、三橋と対決したが、決着はつかなかった。当時は電波法違反という軽微な形式犯だけでなく、より重罪である駐留米軍の機密を不法に探知・収集・漏洩したという刑事特別法違反も問題とされていたが、この間、三橋正雄は電波法違反のみで起訴・有罪となっている。しかし、検察官は三橋起訴の際、電波法以外の問題(スパイ問題や鹿地の容疑)についてマスコミに問われたときに回答をしなかった。

1953年、三橋の電波法違反の有罪判決後、11月に至ってようやくこの三橋事件の共犯として鹿地は無免許無線局利用による電波法違反のみで起訴されたが、長い裁判の末に1969年に無罪が確定した[1]。鹿地が三橋に渡したという暗号文の筆跡鑑定だけでも何故かダラダラと7年半にかけられた挙句の長期化で、結局、暗号文は鹿地の筆跡だとするもの、筆跡ではないとするもの、正反対の鑑定結果2通が出ている。判決では、筆跡鑑定の結果は信頼できないとし、三橋が新聞報道の写真では自身の接触者が鹿地だと確信できなかったにもかかわらず情報機関の人間から鹿地の新聞写真を見せられる段になって鹿地だと確信したというのは信用できないとされた[11]

晩年は戦時中の活動の経験を中心に執筆し、『日本兵士の反戦活動』(同成社)、『「抗日戦争」のなかで』(新日本出版社)などを著した。雑誌『民主文学』に、それらの続編にあたる「反戦同盟記」を連載中に死去した。墓所は宇佐市覚正寺。
脚注^ a b c d 20世紀日本人名事典
^ 鹿地亘「日本兵士の反戦運動」同成社 (1982/10)、同編「反戦資料」
^ a b c d e 法政大学大原社会問題研究所編著 『日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働運動The Labour Year Book of Japan special ed.』1965年10月30日、労働旬報社刊。第四編 治安維持法と政治運動第三章 中国における日本人の反戦運動第一節 国民党地区 法政大学大原社会問題研究所、2000年2月22日公開。2016年10月15日閲覧。
^ 倉前盛通「悪の論理」  (日本工業新聞社、1979年、角川書店 (1980)
^ 加藤哲郎「『野坂参三・毛沢東・?介石』往復書簡」『文藝春秋』2004年6月号
^ 青山和夫の著書に『謀略熟練工』妙義出版 1957、『反戦政略 中国からみた日本』三崎書房 1972
^ 「米軍人には強制できぬ 証人喚問」『朝日新聞』、1952年12月24日、朝刊、7面。
^ 「鹿地監禁は知っていた 斉藤長官答弁」『朝日新聞』、1953年1月27日、朝刊、1面。
^ 「強制された”自供書”鹿地氏 米大使館の覚書に反論」『朝日新聞』、1953年1月28日、朝刊、7面。
^ 「行きづまった鹿地事件」『朝日新聞』、1953年1月18日。
^ 「鹿地被告、逆転無罪」『読売新聞』、1969年6月26日。

関連項目

鹿地事件

日本の黒い霧

外部リンク

国民党地区における日本人の反戦運動〔日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働運動148〕
- 法政大学大原社会問題研究所

国民党地区における日本人の反戦運動〔日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働運動153〕 - 法政大学大原社会問題研究所

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