鷹匠
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次の陽成天皇の元慶6年(882年)に蔵人所の鷹飼のみ復活され、蔵人所が鷹狩を管掌する[32]

奈良時代の愛好者としては大伴家持橘奈良麻呂が知られ、平安時代においては、初期の桓武天皇嵯峨天皇、陽成天皇、光孝天皇宇多天皇醍醐天皇らとその子孫は鷹狩を好んだ。嵯峨天皇は鷹狩に関する漢詩を残しているほか、技術書として『新修鷹経』を編纂させている(818年)。現存する鷹狩技術のテキストとしては世界で2番目に古い。中期以降においても、一条天皇白河天皇などの愛好者が現れたが、天皇自身よりも貴族層による鷹狩が主流となる。坂上田村麻呂在原行平在原業平は鷹狩の名手としても知られ、源信は鷹狩の途中で事故死したと伝えられている。

鷹狩は文学の題材ともなり、『伊勢物語』、『源氏物語』、『今昔物語』等に鷹狩にまつわるエピソードがある。和歌の世界においては、鷹狩は「大鷹狩」と「小鷹狩」に分けられ、中世にいたるまで歌題の一つであった。「大鷹狩」は冬の歌語であり、「小鷹狩」は秋の歌語である。

古代の鷹狩は仏教の殺生禁止の思想と神道における贄献上の思想(天皇についてはこれに王土王臣思想が加わる)のせめぎ合いの中で規制と緩和が繰り返されてきたが、最終的には天皇と一部貴族による特権とされるようになった。また、鷹狩の規制は鷹の飼育や狩りで生活をしてきた蝦夷の生活を圧迫し、平安時代前期の蝦夷の反乱を原因の一つになったとする見方もある[32]
中世

中世には武家の間でも行われ始め、一遍上人絵伝聖衆来迎寺六道絵の描写や『吾妻鏡』・『曽我物語』の記述に鎌倉時代の有様をうかがうことができる。室町時代の様子は洛中洛外図屏風各本に描かれている。

織田信長豊臣秀吉徳川家康はいずれも鷹狩を好み、他の大名の間でも広く行われるようになった[1]。信長が東山はじめ各地で鷹狩を行ったこと、諸国の武将がこぞって信長に鷹を献上したことは『信長公記』に記載されている。また、朝倉教景(宗滴)は、庭で鷹を卵から育てる人工繁殖を行っており、この養鷹法は戦国武将の中でも特異な例とされる[33]。現在判明している限りでは世界最古の成功記録である(『養鷹記』)。公家および公家随身による鷹狩も徳川家康による禁止まで引き続き行われ、公卿持明院家西園寺家三条西家、地下の下毛野家などが鷹狩を家業とし、和歌あるいは散文形式の技術書(『鷹書』)が著されている。近衛前久は鷹狩の権威者として織田信長と交わり、また豊臣秀吉と徳川家康に解説書『龍山公鷹百首』を与えている。一方、武家においても、諏訪大社二荒山神社への贄鷹儀礼と結びついて、祢津流諏訪流宇都宮流等の鷹術流派が現れ、禰津常安(松鴎軒)門下からは、屋代流、荒井流、吉田流など8つの流派が分派した。
近世.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキソースに東照宮御実紀附録/巻廿四の原文(鷹狩にまつわる徳川家康の逸話集)があります。『鷹匠』鳥園斎 栄深

戦国武将の間で鷹狩が広まったが、特に徳川家康が鷹狩を好んだのは有名で、単なる鷹好きとか慰めの域を越えて確たる養生法と捉えていた。『中泉古老諸談』によると家康は鷹狩を気分転換の遊芸にとどめず、身体を鍛える一法とみなし、内臓の働きを促して快食・快眠に資する養生と考えていたことが知られている[34]。家康には鷹匠組なる技術者が側近として付いており、組頭に伊部勘右衛門という人が大御所時代までいた。東照宮御影として知られる家康の礼拝用肖像画にも白鷹が書き込まれる場合が多い。また家康の側近としても知られる本多正信も鷹匠であった。江戸時代には代々の徳川将軍は鷹狩を好んだ。3代将軍・家光は特に好み、将軍在職中に数百回も鷹狩を行った。家光は将軍専用の鷹場を整備して鳥見を設置したり、江戸城二の丸に鷹を飼う「鷹坊」を設置したことで知られている。家光時代の鷹狩については江戸図屏風でその様子をうかがうことができる。将軍家と大名家の間では鷹や鷹狩の獲物の贈答が頻繁に行われ、これら献上や拝領は家格に従って品数まで定着するまでに至った[1]。また参勤交代で江戸にいる諸大名に対しては江戸近郊に拝借鷹場を定めて鷹狩を許した[1]

一方で鷹狩は殺生にあたるとして行わない将軍や藩主もいた[1]。5代将軍・綱吉は動物愛護の法令である「生類憐れみの令」によって鷹狩を段階的に廃止し、鷹狩に関連する贈答もすべて禁止した[1]。但し綱吉も将軍になる前は鷹狩をやり練馬御殿に立ち寄っていた。

生類憐れみの令は綱吉死後に廃されたものの、鷹狩が復活するのは8代将軍・吉宗の享保年間であった[1]。吉宗は古今の鷹書を収集・研究し、自らも鶴狩の著作を残している。累代の江戸幕府の鷹書は内閣文庫等に収蔵されている。江戸時代の大名では、伊達重村島津重豪松平斉貴などが鷹狩愛好家として特に著名であり、特に松平斉貴が研究用に収集した文献は、今日東京国立博物館島根県立図書館等に収蔵されている。


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