鶴見和子
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1966年12月、渡米しプリンストン大学社会学博士号を取得[3][28]

1969年上智大学外国語学部教授、同大学国際関係研究所所員[29]。[要出典]

1973年春、トロント大学から招請を受け、渡加[30]

八王子大学セミナーハウスの運営委員や市井三郎桜井徳太郎などと「思想の冒険」グループ(他に、宇野重昭内山秀夫色川大吉三輪公忠菊地昌典山田慶児)をつくり、水俣病近代の超克などの共同研究を行った[要出典][31]

実現には至らなかったが日本の国連代表部公使の候補になったこともある(結局、選ばれたのは緒方貞子だった)。[要出典]
晩年

1995年12月に脳出血で倒れて左片麻痺となり[32]、車椅子生活を送りながらも[33]、これまで書かれた著作をまとめた『鶴見和子曼荼羅』(全9巻)や、生涯の中で関わりのあった様々な人物や学問上の関心が照応する相手との対談をまとめた『鶴見和子 対話まんだら』というシリーズを藤原書店より刊行。[要出典]

2006年7月31日大腸がんのため88歳で没した[要出典][34]。墓所は作らず散骨した。
人物・趣味

和歌や日舞、着物などの趣味の豊かさでも知られ、その方面の随筆、写真本などの刊行物もある。[
要出典]

「萎えたるは萎えたるままに美しく歩み納めむこの花道を」と生前に詠んだ歌にふさわしく、最後まで実践と学問と道楽をひとつの生き様として華やかに貫いた。[要出典]

生涯独身[35]。弟の俊輔は『和子はおやじを非常に愛していた。率直に言って、生涯で一番愛した男なんだ。「父の娘」というのがいるでしょ。アナイス・ニンとか森茉莉とか、その型なんだよ』と述べている[35]

皇族との関係

2007年7月28日に新宿中村屋本店で催された一周忌の集いには、美智子皇后も臨席した[36]。鶴見和子本人も生前、明仁天皇と美智子皇后への深い尊敬の念を語っていた[37]
家族

父は政治家・
鶴見祐輔[38]

弟は哲学者鶴見俊輔[38]

甥(俊輔の息子)に早稲田大学文学部教授の鶴見太郎[39]


妹の夫は法学者の内山尚三[40]

父方の叔父は外交官鶴見憲[41]

父方の従弟(鶴見憲の息子)に人類学者鶴見良行[42]



母方の祖父は政治家・後藤新平[38]、同曾祖父に政治家・安場保和[40]

母方の叔父に佐野学[要出典]。

母方の従兄に社会主義運動家の佐野碩佐野博[要出典]。

母方の親戚(安場保和の孫娘の婿)に法学者平野義太郎[要出典]。


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