帰郷した鶴田を待っていたのは、名古屋労働者協会を設立し、サンジカリズム系労働運動のリーダーとして活動していた葉山であった。彼の勧誘で同協会に入会し労働争議などに関与するも、協会に危機が迫っていることを予知した葉山は鶴田を帰郷させた。その直後、1923年(大正12年)6月に、後に「名古屋共産党事件」と呼ばれる検挙によって葉山は入獄。やがて獄中に執筆した『淫売婦』、『難破』(後に『海に生くる人々』と改題)によってプロレタリア文学作家として知れ渡るようになる。その間、鶴田は郷里・豊津で弟信夫の主催する文芸同人誌に参加し、後に妻となる野島勝子に出会う。また、1926年(大正15年・昭和元年)には姉・豊子を訪ねて朝鮮半島に渡り、民族問題に関心を寄せる。 1927年(昭和2年)、帰郷した鶴田は再び葉山の勧誘を受け上京し、労農芸術家連盟(労芸)に加盟。11月、「文芸戦線」誌に『子守娘が紳士を殴った』で作家デビューする。折しも葉山らが日本プロレタリア芸術連盟から追放され、その後山川均の論文掲載を巡って蔵原惟人が労芸を脱退するなど、左派芸術家たちが四散分裂を繰り返していた時期だった[1]。この年、野島勝子と結婚。 鶴田はその後、労芸が1932年(昭和7年)に解散し、「文芸戦線」が終刊するまで同誌を中心に活動を展開した。鶴田が活動した時期は1928年3月15日の左翼大弾圧や五・一五事件を契機としてそれまで地下にあった共産党系左翼組織が結合。中野重治を中心とした全日本無産者芸術連盟(ナップ)結成に至り、従来の社会主義系組織と対立するようになった時期である。1928年に「戦旗」誌が創刊し、小林多喜二、徳永直が華々しくデビューしたのとは対照的に、労芸と「文芸戦線」は様々な内紛によって、「文戦」「レフト」「新文戦」と縮小していった。この時、ともに終刊まで筆を並べていたのが終生の盟友となる伊藤永之介である。 「文芸戦線時代の作品として、蔵原に評価された『海鳴り』(1928年)と、それを軸としてイコトル首長を登場させた『闇の怒』(1929年)がある。また、1930年には文芸誌「若草」に八雲町を舞台とした第一号作品、『ユーラップ河の秋』を出している。1933年には『コシヤマイン記』の前身と云えるアイヌを主題とした叙事詩的作品、『ペンケル物語』を「レフト」にて発表した。 だが、「文芸戦線」に参加した5年間に書き上げた作品はその後単行本として収録されることはなく、『海鳴り』や『闇の怒』など数作が鶴田の最晩年、1985年に編纂された『プロレタリア文学集11 文芸戦線作品集 第二巻』に収録されたのみである[注釈 2]。 プロレタリア文学そのものが1933年の小林虐殺による終焉を迎える中、生活苦のために家族ぐるみで共同生活を送っていた鶴田。伊藤は1936年(昭和11年)1月、同人誌「小説」を出版。その一ヶ月後、2月に代表作となる『コシヤマイン記』を発表する。林房雄によって推挙された同作は同年8月、小田嶽夫の『城外』とともに第3回芥川賞を受賞。同賞の懸賞金で八雲町を再訪しており、酪農を軸とした新たな農民文学を志すようになる。 『コシヤマイン記』を契機に、昭和10年代以降はプロレタリア文学から離れ、穏当な農民文学へと移行していった。1937年から41年にかけて、現在『コシヤマイン記』とともに講談社文芸文庫に収蔵されている、『摩周湖』(37年)『ピリカベツの駅逓』(38年)、『ベロニカ物語』『ポプラの墓標』(40年)、『ナンマッカの大男』『ニシタッパの農夫』(41年)といった「北海道もの」が執筆された。また、40年には葉山を題材とした『我が悪霊』を刊行している。 この頃になると戦時体制による統制は著しいものになり、40年には日本出版文化協会 戦況が厳しくなった1945年に、鶴田・伊藤両一家は秋田県平鹿郡横手町(現:横手市)に疎開する。以後、1950年に上京するまでの間、秋田に留まり酪農の講演活動をする傍ら執筆活動を行った。その後、1952年と翌53年に日本社会党公認候補として級秋田二区より衆議院選挙に出馬するも落選。55年には秋田県横手市長選挙に出馬するもこれも落選している。その間、1954年に刊行した児童小説、『ハッタラはわが故郷』が翌55年に小学館児童文化賞を受賞。 だが、この時期から農業誌の編集長や、農業問題研究会事務局長など農業指導者としての活動が主体となり、文筆活動からは徐々に離れていった。1961年に『アイヌ悲歌・コシャマイン叛乱』、1963年に『アイヌ清左衛門の入牢』と2作の短編を「人物往来歴史読本」で発表しているが、これが小説家として最末期の作だとされる。1956年には長らく生活を共にしてきた伊藤が没する。 1970年(昭和47年)、70歳になった晩年の鶴田は草木画家として活動し、何作かの画集を出版している。 1988年(昭和63年)4月1日、肝不全のため東京都中野区の慈生会病院(現:総合東京病院)で死去。86歳没。 没する2年前、1986年に八雲町春日に顕彰碑が建立され、自ら揮毫を残している。また、没後、故郷の豊津(みやこ町)の八景山自然公園中腹にも顕彰碑が建てられた。 戦前のプロレタリア文学運動の分裂と終焉、戦時体制による統制という文筆家としては難しい時代に生き、戦後は農業指導者として作家活動から離れた鶴田の作品は全集未収録、あるいは埋没しているものが多く、現在においてもその全貌は明らかではない。
「文芸戦線」での活動
『コシヤマイン記』発表と農民文学への転向
戦後、農業指導者としての後半生
主な作品
海鳴り (文芸戦線 1928.1)
闇の怒 (文芸戦線 1929.1)
ペンケル物語 (レフト 1933.9)
コシャマイン記 (小説 1936.2)
ビンニラ物語―篠原中佐と若林軍医の話 (文藝春秋 1937.1)
T農場の人々 (自由 1937.1?4)
僕たちと志摩氏 (改造 1937.2)
摩周湖 (若草 1937.11)
わが悪霊 (日本文学 1938.5)
山岳を征く部隊 (文藝 1938.5)
和蘭豆百害之事 (文筆 1938.5)
ピリカベツの駅逓 (中央公論 1938.10)
トコタンの丘 (革新 1939.3)
ベロニカ物語 (月刊文章 1939.7)
ポプラの墓標 (若草 1939.7)
ナンマッカの大男 (公論 1941.10)
ニシタッパの農夫 (週刊朝日 1941.10)
土の英雄 (健文社 1944.3)
アッツ島 (国民図書刊行会設立事務所 1944.3)
ハッタラはわが故郷 (小学六年生 1954.4 - 1955.3)
著作
著書
コシヤマイン記 : 他六篇 鶴田知也 著 改造社 1936
若き日 鶴田知也 著 鱒書房 1939(コバルト叢書 ; 第4)
わが悪霊 鶴田知也 著 六芸社 1939
北辺記 : 小説集 鶴田知也 著 砂子屋書房 1939
コシャマイン記 鶴田知也 著 日本文學社 1939(現代名作児童版)
あたらしき門 : 季節の人々 鶴田知也 著 三笠書房 1940
トコタンの丘 : 他二篇 鶴田知也 著 今日の問題社 1940
家庭の幸福 : 外五篇 鶴田知也 著 桜井書店 1941
北辺の土 鶴田知也 著 国文社 1942
北方の道 鶴田知也 著 錦城出版社 1942(新日本文芸叢書)
神々の日 鶴田知也 著 桜井書店 1942
自然と愛 鶴田知也 著 学芸社 1942
土の英雄 鶴田知也 著 大雅堂 1944
土の英雄 鶴田知也 著 健文社 1944
若き日 鶴田知也 著 コバルト社 1945(コバルト叢書 ; 第4)
家庭の幸福 鶴田知也 著 桜井書店 1948
ハッタラはわが故郷 鶴田知也 著 刀江書院 1960(少年少女現代文学傑作選集 ; 5)
農業の近代化と共同経営 : 新利根開拓農協の歩み 的場徳造, 鶴田知也, 上野満
母と子の世界偉人物語 2(アンデルセン、夏目漱石、マーク・トウェン)岡田要等監修 鶴田知也等著 若菜珪等絵 小学館
新しい農民運動の創造 : 生産農民とともに考える 鶴田知也 著 社会新報 1967
鶴田知也作品集 新時代社 1970
わが植物画帖 第1集 鶴田知也 著 市民新聞社 1972
アンデルセン・夏目漱石・マークトウェイン 鶴田知也 等文,若菜珪 等絵 小学館 1973(偉人物語)
わが植物画帖 第2集 鶴田知也 著 市民新聞社 1974
秩父 : 札所三十四カ所めぐり [文・画]: 鶴田知也,[写真]: 井上光三郎
コシャマイン記 鶴田知也 著 みやま書房 1976
画文草木帖 鶴田知也 著 東京書籍 1978(東書選書 ; 25)
草木図誌 鶴田知也 著 東京書籍 1979(東書選書 ; 45)
北海道文学全集 第11巻 立風書房 1980
百草百木誌 鶴田知也 著 角川書店 1981(角川選書 ; 128)
秩父路の野草 夏秋編 鶴田知也 文,井上光三郎 写真 埼玉新聞社 1983
秩父路の野草 冬春編 鶴田知也 文,井上光三郎 写真 埼玉新聞社 1984
草木を描く楽しみ 鶴田知也 著 東京書籍 1987
コシャマイン記ベロニカ物語 : 鶴田知也作品集 鶴田知也 [著], 講談社 2009(講談社文芸文庫 ; つI1)
翻訳
北京の日 上下巻 林語堂 著,鶴田知也 訳 今日の問題社 1940
ノーベル賞文学叢書 第1 今日の問題社 1940
しとやかなる天性 / F.エミール・シッランパア 著 鶴田知也 訳