鶴田 浩二(つるた こうじ[2][3]、(1924年〈大正13年〉12月6日[2] - 1987年〈昭和62年〉6月16日)は、日本の俳優、歌手。
昭和を代表する映画俳優の一人として数多くの映画やドラマに主演。戦後派として登場し、甘さと翳りを兼ね備えた天賦の美貌で一躍トップスターに躍り出た。若いころは絶世の美男子としてアイドル的人気を博したが、中年期からは任侠映画や戦争もので見せた渋い魅力で、日本映画界を代表するスターとして長らく君臨した。また、歌手としても独特の哀愁を帯びた声と歌唱法で知られた。 兵庫県西宮市出生。戸籍上の出身地は、静岡県浜松市[注釈 1]。本名は小野 榮一(おの えいいち)。 西宮時代、父と母が結婚していなかったのは、鶴田の父である大鳥の家が鶴田の母との婚姻を許可しなかったためである。鶴田の母は、鶴田を連れて西宮から浜松へと移り住み、別の男性と婚姻した[注釈 2]。母は、水商売をして生計を立てていたため、幼かった鶴田は目の不自由な祖母と狭い長屋で暮らしていた。祖母は鶴田の母を産んだ際に栄養失調によって失明。祖母との2人暮らしは極貧そのもので、洗面器で米を炊いていたという。 ほどなく祖母が他界。家でたった1人の生活となる。母会いたさに遊廓へ1人で向かったが、客商売の仕事中だった母は相手にしてくれなかった。そのうえ、義父は博打好きで幼児期には貯金箱を割ってまで金を奪ったり、のちに鶴田が映画界の大スターになってからも不在時を狙って博打代金を借りにきた。 こうした幼少期の思い出から、鶴田は嫌いなものに祖母と二人で毎日見た夕日を挙げている。また、鶴田の娘も父の少年時代の思い出話について、友達と遊んだとかそういったほのぼのとした話題が全くなかったとしている。 14歳のときに、俳優に憧れ当時時代劇スターであった高田浩吉の劇団に入団。 此花商業学校で学び、19歳で関西大学専門部商科に進学するが、その年に学徒出陣令により徴兵され、学校での勉学は続けることができなかった[注釈 3]。終戦まで海軍航空隊に所属し、このときの体験がその後の人生に強く影響を及ぼした。また、22歳のときに薬の副作用で、左耳が難聴になってしまう。1951年(昭和26年)公開の松竹映画『地獄の血闘』に出演した際、共演した歌手の田端義夫に、歌唱方法についてのアドバイスを受け、以後、鶴田は「左耳に左手を沿えて歌う」という独特の歌唱スタイルになった。また、歌う際のマイクの持ち方も独特で、白いハンカチで包んだマイクを右手で持ち右手小指を立てるというものだった。 1948年(昭和23年)、松竹入り[2]。芸名の「鶴田浩二」は師匠の「高田浩吉」に由来する。映画界へ身を投じたものの、最初は大部屋に入れられた。いくつかの映画に端役で出演したが、すぐに頭角を現し、長谷川一夫主演の松竹『遊侠の群れ』で本格デビュー。1949年(昭和24年)、『フランチェスカの鐘』で初主演。佐田啓二、高橋貞二とともに松竹「青春三羽烏」と謳われヒットを連発。 1950年代に入ってからも甘い美貌と虚無の匂いを漂わせスター街道を上り続け、芸能雑誌『平凡』の人気投票で、2位の池部良、3位の長谷川一夫を大きく引き離しての第1位になる。マルベル堂のプロマイドの売上も1位となる。甘い二枚目からサラリーマン、侍、軍人、殺し屋、ギャングに至るまで幅広くこなす。 高田浩吉主催の打ち上げパーティ宴席で、高田は必ず「『締めを鶴田、歌え』、歌い終わると『相変わらず下手だな、皆さん酔いが醒めたところでお開きにしましょう』」と言ったのは高田の親心で、実は歌の訓練だった。 1952年(昭和27年)には戦後の俳優の独立プロ第1号となる新生プロ(クレインズ・クラブ)を興した。SKD(松竹歌劇団)のトップスター、ターキーこと水の江瀧子らが所属タレントとなった。恋人と噂された岸惠子と共演した戦後初の海外ロケ映画『ハワイの夜』(新生プロ制作)が大ヒット。戦後最大のロマンスといわれたが、岸が所属する松竹はそれを許さなかった。鶴田は自殺未遂事件を起こす。同年、「男の夜曲」で歌手デビュー。歌手としてもヒットを飛ばし戦後の日本を代表する大スターとなっていく。 1953年(昭和28年)1月6日午後7時ごろ、大阪・天王寺で鶴田浩二襲撃事件が発生した。
経歴
生い立ち
少年時代?青年時代
トップスターへ
襲撃事件左から、小野満、田岡一雄、鶴田(1952年)
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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