鶴田浩二
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1960年(昭和35年)、東映のゼネラルマネージャー的立場にあった岡田茂(のちの同社社長)が[4]第二東映の設立による役者不足を補うため、「現代劇も時代劇もできるいい役者はいないか」と俊藤浩滋に相談し、「それなら鶴田浩二がぴったりや」と俊藤が鶴田を口説き[5][6][注釈 4]、当時は五社協定(このころは六社協定)があり移籍は難しかったが、東宝の藤本真澄プロデューサーに相談すると「どうぞ、どうぞ」と、東映に円満移籍となった[6]。時代劇ブームを巻き起こした東映京都撮影所に比べヒットがなかった現代劇の東映東京撮影所の救世主となるべくして高待遇で迎えられる。第1回作『砂漠を渡る太陽』で医師役に扮したのをはじめ、現代劇、時代劇、ギャング物と数々のジャンルの作品に主演し、重厚な演技を見せたが、決定打に欠けていた[6]。オールスターキャスト時代劇には一度も招かれず低予算映画ばかり出され腐っていた[7]

1963年(昭和38年)、『人生劇場 飛車角』に主演し大ヒットさせる[2][8][9]。鶴田を主演で起用した岡田茂プロデューサーのカンのよさが、鶴田を任侠映画のスターに押し上げた[8][10]。カムバックに成功し[7]、ここから世に言う任侠映画ブームが始まる[11]。時代劇の東映といわれた同社だが時代劇では客が入らなくなっており、多くの俳優、監督、スタッフを解雇せねばならぬほど社は傾いていた。この大ヒットを機にヤクザ映画会社に変貌を遂げ、成功。鶴田も任侠路線のトップスターとして高倉健とともに多くのヤクザ映画に出演。熱狂的な支持を得た。ヤクザ映画は、テレビの普及で他社の映画館に閑古鳥が鳴くなか、多くの観衆を集めつづけた。「人生劇場シリーズ」「博徒シリーズ」『明治侠客伝 三代目襲名』「関東シリーズ」「博奕打ちシリーズ」『人間魚雷 あゝ回天特別攻撃隊』、オールスターの「列伝シリーズ」の主演は特に有名。

1970年(昭和45年)12月25日にリリースしたシングル傷だらけの人生」が大ヒット。1971年(昭和46年)の『第13回日本レコード大賞』で大衆賞、『第4回日本有線大賞』では大賞を受賞し、同名で映画化もされた。このヒットを契機にテレビの歌番組へも積極的に出演するようになり、自身の作品以外に軍歌戦時歌謡などもレパートリーとした。

テレビドラマにも黎明期から出演している。中でも1976年(昭和51年) - 1982年(昭和57年)まで放送されたNHKのドラマ『男たちの旅路』シリーズ(山田太一原作)[12]は大ヒットとなった。

1985年(昭和60年)に肺癌の診断を受けるが、本人には本当の病名が伏せられた。翌1986年(昭和61年)に病をおして主演したNHKのドラマ『シャツの店』が遺作となった。その後、闘病生活が続いたものの、1987年(昭和62年)6月16日に東京都新宿区慶應義塾大学病院で死去。62歳没[1]。鶴田の葬儀の際には多くの戦友や元特攻隊員が駆けつけ、鶴田の亡骸に旧海軍の第二種軍装(白い夏服)を着せたうえ、棺を旭日旗(いわゆる軍艦旗)で包み、戦友たちの歌う軍歌と葬送ラッパの流れる中を送られていった。弔辞は池部良が務めた。故人の遺志により墓碑は高野山奥の院、位牌は高野山大円院に安置されている。墓所は鎌倉霊園。
人物像

生前の右寄りの言動、また多くの軍歌を歌ったことや戦争映画の主演から「
右翼」と評されることもあり、実際に右翼の街宣車による街頭行動の際、彼が唄う曲が流されることが多い。ただし鶴田自身は街宣右翼の言動に対しては不快感を露わにしていたという。「博奕打ち 総長賭博」を絶賛していた鶴田ファンの三島由紀夫と雑誌で対談して以来、同い年ということもあり親交を温めるようになる。反面、戦争指導者を憎むこと甚だしく、「東條英機は切腹するべきであった」(東條は拳銃で自決を図ろうとして失敗)、「特攻隊は外道の戦術」と公に批判していた(軍歌『同期の櫻』を唄う際には、涙ぐみながら唄う姿が見られた)。

映画芸術』1968年1月号での三島由紀夫大島渚の対談で、以下のやりとりがある(司会は小川徹)。小川「やくざ映画というのが最近はやって来ましたね」 三島「僕は大好きです」 小川「どういう風に好きですか?」 三島「鶴田浩二が好きなんですよ。よく東映に行くんですよ、恥ずかしくてね。モギリの女の子に顔見られるのがね」 小川「試写でもやらなくなったしね」 三島「ええ、それで、高倉健というのは僕あまり好きじゃないんですよ。あまり、颯爽としててね、反感持つね、嫉妬かもしれないけど、鶴田が好きです。ちょっと疲れた目の下がだぶってきて、何かじっと考えるでしょ、考えることなんか何もないですよね。だけど考える」 小川「そこがいいんですか」 三島「たまんないですよね、あれが。僕もああいう瞬間になったら、人間というのはね、こんな偉そうな空虚な議論してるときよりも、本当、考えるかもしれない。文士がものを考えるとか悩むとかということを、いろいろ小説で書いてるけどね。ああいうときの鶴田の悩み、分かってなくちゃいけないと思う。そうするとその結果おこることはね、子分のために身を捨てるとか、女のおために切り込むとか、もう愚かな結果しかない。だけど人間結果で判断しちゃいけないですからね。あの悩んでるときの鶴田はありゃ深刻ですよ。いつも必ず、やっぱり悩むんです。着物着てね。こうじーっと考える。その考えてる顔いいですよ。ホント」 大島「正直にいえば何も考えてないんですけどね。考えないある時間があるんですね、鶴田には。おそらく考えないんだと思うんです、ホントには。やっぱりこれは戦中派のいいとこで、ある考えないでやっている時間があったんだな」 三島「あったんだんだと思う。あいつね、自分の生活体験の中にあったんだと思う。そこまで役者をバカにしちゃ可哀想だと思う。やっぱりあった、必ず、それがにじむよ」 大島「そんな短時間でね、考えられる問題じゃないですよ。考えないんだけど行かなきゃならんというと、僕はあの顔にならざるを得ないと思う」 三島「あの顔はいいね。どうしても行かざるを得ないという前のね」 大島「どうしても行かなきゃならないという結果はもう分かっている。その前はね、もう考えるにはね、あまりにもう時間が短いんだよ」[13]

特攻基地を飛び立つ戦友たちを見送っていった鶴田は、シベリアで倒れていった戦友たちを見ていた作曲家吉田正と親交が深かった。「鶴さん」「吉さん」と呼び合う仲で、鶴田のヒット曲のほとんどは彼の作曲のもの。

鶴田は、我が物顔で撮影所を闊歩する山本麟一に対して、態度が悪いとケンカを吹っかけたことがあり、「鶴田さん止めましょう」と仲裁する高倉健の忠告を無視して挑発を続け、仕方なく応じた元ラグビー部である山本のタックルを受けて卒倒したことがある。その後の鶴田と山本の人間関係は良好になった。

山本麟一が闘病生活を送っていた際、鶴田は病室の彼を見舞っている。看護婦や入院患者にサイン、握手など気さくに応じたという。悪役ばかり演じていて一般の方のイメージがよいとはいえなかった山本だが、「あの大スター鶴田浩二がわざわざ見舞うほどの人物なのか」と、評価が一変する。その後は山本に対する病院側の扱いがよくなったため、山本と山本の妻からとても感謝されている。

川谷拓三は駆け出しの大部屋俳優のころ、がんを宣告され余命いくばくもない兄のために、兄が大ファンだった鶴田に「どうか兄に一目会ってもらえませんでしょうか。お願いします!」と、無茶なお願いをした。大部屋俳優と大スター、本来なら声をかけることも許されない立場ではあったが、川谷の心情を察した鶴田は「ワシの顔見て、死んで行けるんならそれも供養や。行ってやるよ」と兄の入院する病院へ駆けつけた。鶴田と会うことのできた兄は数時間後に息を引き取ったが、死顔は安らかで満足そうであったという。これが縁で鶴田の付き人となり、鶴田の複数の主演映画で端役のチンピラを演じることとなる。鶴田の没後しばらくして、川谷はその恩に報いるため、回想番組に出演し、思い出話を語っている。

ダン池田はニューブリードのバンドマスターとして、「紅白歌合戦」や「夜のヒットスタジオ」で指揮をしたミュージシャンだが、鶴田が出演する際は手書きの楽譜を持参し、必ず楽屋に挨拶に来てくれたと自署『芸能界本日モ反省ノ色ナシ』で回想している。「私は歌の方は素人です。芸術家の皆さん、何とかひとつよろしくお願いします」と大スターの鶴田が頭を下げていくため、背筋が伸びる思いだったという。

ただ、鶴田の評判は必ずしも良好なものばかりではなく、好き嫌いが激しく屈折したプライドから周囲との衝突や暴言も多かったとされる[注釈 5]。撮影所において宇野重吉加藤泰三國連太郎とは口も利かなかったという。


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